「横尾忠則展」は、昨日も書きましたが、おそろしくも全作品展示、ではないのかと思われる量でした。
都立現代美術館をぜんぶ占領(ではないが常設展はどこに避難?)したかと思われる空間ジャックで、入り組んだ空間のあちこちに「貼りめぐらしてある絵はがきに触らないでください」とか「鏡が気になるかたはお使いください」(腰巻きがおいてある————のは床も鏡になっているので、スカートの人への配慮)とか、けったいな指示もあり。
あちこちに係の女性が立っていて、つーとついてきたり、あるいは何をしてるのか、くるくる回ったり。これまでのポスターが壁一面を埋めていたり、リメイク、リモデルのコーナーもあり、そもそも絵の一枚一枚が大きいので、歩く距離も相当です。
係の女性のひとりに「あとどのくらいですか」と聞いたら
「これで半分くらいです」と言われ、へたりこみそうになりました。
一番上の絵は、最後のほうの2020年の部屋の片隅の作品ですが、スヌーピーがいる! とガン見してしまいました。
青鬼らしき妖怪の膝にまるまっているスヌーピー(のぬいぐるみ?)
この絵には他にもクジラらしきものや藤城清治の影絵みたいな女性とか、博物画ふうの植物の部分とか(ややエロティック)、しわだらけの白いカエルとか、奇怪なものがいっぱいです。
「奇想の系譜」というタイトルがついていました。これも辻惟雄の本のタイトルにあるし、いろいろなものが横尾さんの脳内に集結して、意味不明な魅きあいというか、横尾さんにしか聞こえない響きの和音によって、配置されています。
こういう、いろいろなもののコラージュで作る美術の場合、過去の名画引用が「批評」になっている(シュルレアリスム画家の場合に多い)ので、ふーん、と頭を使いながら観ることができますが、横尾さんのめちゃくちゃな引用は
アトランダム
の無垢に満たされています。
だから頭が働くのをあきらめて、ボー、となります。気持ちよい、ボーです。
⭐️ジョットの「受胎告知」やベラスケスの「ラス・メニナス」(「侍女たち」)を持ちこんで上にぬりたくったり、ざかざか滝を浴びせたりしています。↓絵はがき買った
あ、マグリットだ、ポール・デルヴォーだ、と、ちらっ、とだけ目配せしてくる絵もあります。
それもふくめて、横尾コラージュは露骨ではありません。なぜなら、その引用は「うふふ、あれだよ、ほら」と画家が誇示しているのではなく「なぜかわからんが、心にこびりついとる苔」を描くような気分で描いているから・・・・・・という感じ。
だから美術館一杯ぶんの絵を見ても、満腹度が腹八分で、ゆうゆうこなれます。
たぶん、その引用に「余白」があるから。
⭐️八月のいつだったか「徹子の部屋」に横尾さんが登場して、ぼそぼそ、という感じで「現況」(そしてこの展覧会の名前も同じ)について語っていましたが、
おもしろかったのは、すぐ近くに田村正和さんが住んでいて、よく行き会い、情報交換していた(もう、引き時かなあ、とかだそうです)。1度、彼がアトリエにやってきて、質問するのだけれど
「どうも答えられない質問ばかり」だったそうです。
「なぜ?」と徹子さんが聞くと
「どうやってこの絵は描いたんですか、って聞かれてもねえ」
そして続けて
「プロに聞かれたら、ちゃんと答えられるんだけど、ふつうの人に聞かれても、答えられない」と。
⭐️ここが一番面白い場面でした。プロだったら、美術の機微というか絵の生理みたいなのが体でわかるので、それにそって何か言うことができる・・・・・・けれど
「この絵はどうやって描いたか」と言われても、絵の具で描いたとか何とかしか言いようがない。
そして、最近は耳も遠くなったし、コロナでうちにいるしかないので、「ただ描くしかないんだよ」
「イヤイヤ描いているんだよ。イヤイヤ描いた画はどんなもんになるんだろう、と思いながらそれを見届けたくて描いているんだ」
⭐️その2020年や21年の絵は最後の部屋にあったのですが、スカッと大胆な切れ味と強い色彩のこれまでの横尾風ではなくて、R・デュフィみたいな、印象派ふうのやわらかいピンクや中間色でした。
きっと、いままでの様式をやめて、違うものを追ってみたくなったのだろう、と思いますが、それでもやっぱり、絵の枠の中においてあるものが家具でも何でもぜんぶ、たのしく、ルンルン、と響き合っている。そのリズムのはねかたは全然変わらない。
⭐️絵画の極意はわかりませんが(美術の成績ふるわず)、この横尾世界を観ていると、美の本領とは————
「はずむこと」「ひびきあうこと」「ノリがきもちよく、図々しさの一歩手前で、ただしく、たのしく踊っていること」
だという気がしました。
有名なポスターの一連では三島由紀夫をデフォルメして描いたり、大正時代の雑誌の挿絵を引用したりしているのに、そのやりかたに巧んだところがなくて、ただ、「本人が、これか、と思って、置いて、ここまで、と思って止めている」
⭐️生活もこれでなくてはいけない! と思いました。
パロディという意識すらなく、ただ楽しんで、あれこれのイメージを気がすむまで使いまわし、しかも、「このアレンジがオレの表現だ」とドヤ顔になることもなく、くったくなくパノラマを広げて「見て」と呼びかけてくる。
どのフロアでもパラダイスの風が吹いていて、そして批評やチクリはありません。美女の大きな顔の横にシュモクザメが飛んでいる絵もありましたが、イミフ。
イミフこそ楽しさ、つまり無意識さんの躍動するところ。
☆おまけです。ふと思い出したM・エンデ(『ネバー・エンディング・ストーリー』や『モモ』の作家)の発言。彼も父ゆずりで絵を描く作家でした。
「私が重視しているのは、自分の経験において絵 に転換されるものだけしか書かないということだからです。……いつも避けたいと思っていることがあります。説明はしたくないのです。私は本のなかで説明をするつもりはありません。……読者が受け入れることのできる絵 、あるいは読者がそのままにしておける絵、要するに絵物語にうまく転換できないなら、むしろ私は書くことを断念します。」 『闇の考古学』
頭でのツッコミをさそわず、そのままにしておける絵。これが美術の(あるいは芸術の)極意なんだと思います。