「疲れ」ももしかして「思いこみルール設定」している?————目指せリミットレス!  | hermioneのブログ  かるやかな意識のグリッド(の風)にのる

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バシャーリアン。読むことで意識が変わるようなファンタジーや物語に出会ってゆきたい。

↑小田原の海

 

☆この一週間はとても忙しくて、もうちょっと、もうちょっとと思いながら、こなしていましたが、下の大嶋信頼ブログ記事を発見、「心よ!」は、リミットレスにありがたい!方法のようです。

 

「ちょっと待って”心よ!”土日とセミナーやって合間にサーフィンに行って疲れているんじゃないの?」質問をしてみる。

 

すると”心”は「疲れているってあなたの感覚じゃないですから~!」って答えてくれる。

 

「だったら”心よ!”僕は何を感じているの?」と聞いてみます。

 

すぐさま”心”は「快適さを感じている」と答えてくれます(へ~!)。

 

さっきまで「朝から怠くて眠いかも~!」って思っていたのですが、”心”に「快適さを感じている」って言われちゃってから、何だか「確かにこの身体の状態って適度な筋肉疲労かも!って何だか体からエネルギーが湧いてくる感じが」(あれ~!)。

 

本当にさっきのだるさ、眠気、疲れた感じって自分のじゃなかったんだ、と背筋がピンと伸びた状態になっている自分に気が付いて、改めて「心って!すげ~!」って思うんです。 2016.11.21「緊張しちゃう人たち」

 

 これにはびっくりします。感情だけではなく、疲労感のように肉体に属している(?)ものでさえ、「自分のものじゃない」可能性があるとは。

 

★ふつう自分がどうやっているかというと、

 

「なんとなく疲れた」→(きょうは○○と、△△をこなし、しゃべり通しだった、疲れる会合に出た、暑いなかを歩いた)などとスケジュールを数えあげる。→これは疲れるはずだわ、と自分の脳にさらにすり込み納得する→「自分は疲れている」と決める→「ここで休まないと体調を崩す」という「自己啓発的ケアのルール」を意識に入れる→(疲れて休みたい、はこのあたりで本音だと思うようになる)→無理してもやると、そのルールで決めたとおり、体調を崩す。あるいはそのリミッターぎりぎりで、疲れたまま動けなくなる。

 

 という流れです。体力のリミットとそれを破った場合の罰則をまとめて、自分で設定しています。その範囲内でぐるぐる回っています。

 

 しかし、ここで気付きます。

 

「疲れた」はほんとうに、体が「消耗した」なのか? 

 

 それは「気分が落ちた」「めまぐるしく動いた」「めんどうくさい」「楽しいことがない」「不愉快な時間だった」などの感情ひっくるめた全体を、「疲れた」でアバウトに総括しているのではないか? 

 

 で「ダウト!」してみる。あるいは「心よ!」に聞いてみました。「自分は疲れているの?」

 

 そうすると————「安全バー」。

 

 たしかに「安全バー」につかまっているつもりのようです。ほんとうに疲れているかどうかはうやむやにし、「無理しない」という頭のルールが先に立って動いています。そのタブーを破ると体調を崩すと決めているのです。

 

☆引用では、大嶋さんが「自分のものじゃない」と驚いていますが、「疲れ」は、実はいろいろな概念や経験、本で読んだこと、見聞きしたことから、自分ルールや安全バーを作り上げて、「疲れだ」となっているのかもしれません。

 ダウトしてもういっぺん「心よ!」に「そういうことかな?」と聞いてみると。

 

「外せば?」

 

「チコちゃん」は先週残念ながら放送が休みでしたが、五歳女児のちょっとお茶目な口調です。「安全バーを外せ」ということなのか、それとも「外してみたら、わかるよ」か。ちょっと怖い。

 

 どっちにしても、出走バーがあがって、走ってもいいよ、と言われた馬の気分がします。

 遠くリミットレスの旗が振られているような。

 朝に備えて早く寝なければ、というのをとりあえず忘れようと思います。