「心よ」は答えるのか、応えるのか+「子よ、あなたの罪は許された」————病気と許しと無意識さん | hermioneのブログ  かるやかな意識のグリッド(の風)にのる

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バシャーリアン。読むことで意識が変わるようなファンタジーや物語に出会ってゆきたい。

↑チーキーザウルス(2017発売) 羽毛恐竜化しています。この羽毛はきっと「頭で風を感じるためのもの・・・・・・」

 

 

★今朝もとても暑く、駅前のタクシー乗り場には列ができ、タクシー会社に電話をしても、そもそも話し中で通じません。

 連日のTVの「危険!」連呼や、あちこちで救急車を見かけるにつけても、みんな自衛策としてタクシーを利用。

 

 はい、「心よ!」の出番です。

 前に並んでいた人が、私が複数のタクシー会社にかけても話し中、と聞き、少し考えてから場を離れて去ってゆきました。合理的判断です・・・・・・

 しかし、私は「乗りたい」・・・・・・

 「心よ!」は、答えてくれるのか、応えてくれるのか、その境目がはっきりしないのですが、

 「乗りたいんですけど・・・・・・」と言いながら、「聞いてみる」と

 「だからぁ」みたいなちょっといらだった感じでした。

 ん? と思うと、角を曲がってタクシーが二台。

 

 「あなたがたの信仰が足りない」とキリストが弟子に言われたような。

 

 そういう「だからぁ」(わかってるってば)の感じでした。

 

 なんだろう。「すげー・・・・・・」(だれが? 「心」が?)

 

★と、無事に、チャペルのある大学についたので、イエスさまの「許し」のブログ部分紹介に。

祖父が牧師さんで、さんざんキリスト教と格闘してきた大嶋信頼さんらしいお話です。

 自分を裁いて処罰的な心構えでいると症状が出たけれど、それは単なる自己免疫の暴走、と別の捉え方(許し)になると、自分を責めなくなり、炎症がおさまった、と。

 人間の深層心理にとって根深い罪悪感。

 

私は「自分がだらしなくて怠け者で人に迷惑をかけるダメ人間の罪人だから罰を受けなければいけない」と思っています。でも、ミラーニューロンの活性化で研究者の脳と繋がったときに「それって罪じゃなくて腸壁に穴が開いて自己免疫が暴走しているだけですから~!」と私に細胞レベル、遺伝子のレベルで許しを与えてくれます。研究者の脳と繋がって、責める理由を失ったときに自己免疫が沈静化して炎症も収まってそして本来の私に戻り、身体的にも思考的にも”自分を責めて攻撃する”ということから解放されます。

 

イエスが友達に連れて来られた中風(脳出血などによっておこる、半身不随、手足の麻痺などの症状)の方に対して「子よ、あなたの罪は許された」と言ったことと、つながるような気がした。

 

今でも、昔でも、病気の方を見て「かわいそう~!」と言いながら頭の中では「両親の対応に問題が」とか「本人が不摂生をしたから」などと自動的に相手や家族を罪に定めて裁いてしまうのは、本人の頭の中にもそれがあるから。

 

私の場合、自分を責めれば責めるほど自己免疫も自分の細胞を罰するので腸の炎症を顕著に感じることができました。

 

その”罪か”ら解放されれば、自分を罰することからも解放されるから症状から解放される、なんてことが考えられます。

 

中風の方はイエスから「あなたに命じる。起きよ、床を取りあげて家に帰れ」と言われたら、すぐに起き上がって床を取りあげてみんなの前を出て行った。

 

それは、細胞レベル、遺伝子レベルでの許しがあったから、と考えられるんです。

 

でも、興味深いのは誰もが「子よ、あなたの罪は許された」とただ言っても効果があるわけじゃないと思うのです。

本当に”罪”が無いって知っている方だったから”許し”がそこにあった。  

          2016.10.6  "自分を責める"から解放されると症状からも解放される

 

(上と同じエピソードについて)

考えてみたら、脳卒中で脳細胞が壊死してしまったのも完全に無視。

そして、多分長期間動けなかったからイエスの元に連れて来られたはずだから、筋肉も全然なかったはず。なのにリハビリ無視で床を取り上げて歩けちゃうから面白い。

 

僕たちってすごく狭い常識に縛られてしまっていることになる。

その常識が知らず知らずのうちに「人を罪に定める」ということと同じことをしているのかもしれない。

「常識的に考えて、この人がすぐに歩くのは無理!」と判断して心の中で相手を裁いているから。

 

「子よ、あなたの罪は許された!」という言葉はものすごく興味深い。

 

この言葉から全ての常識が変わる気がしている。

                                                                                         2016.5.12「歩けちゃう!」

 

★病気やアレルギーなどの不具合について、人間は「自分が悪いから神からの罰やお諭し」と考えてきた長い歴史があります。

 そしていまでも、自分が「不摂生だった」とか「ちゃんと休まなかった」「ストレスがかかるような生活をした」「食べ物に気をつけなかった」「生活が不規則」「怒りを溜めた」など、たしかに「罪」に自分を定めている面があります。そしてその罰として、病気になったりしている、というふうに考える。

 

 でもここで、「自己免疫が自分を守ろうとしていて暴走しているだけ」というふうに、免責してあげれば、自分で自分を責めなくなって、罰(炎症)が許される、という感じになるのだろうなあという論です。

 

 それもただその理屈を知る、のではなく、この深い罪悪感とのかかわりのなかで、

 

「あなたの罪は許された」と言ってもらうことが、大きいのだろう、とこれは深く心に響きます。

キリストや聖者の「奇跡的治癒」とはそういうこと(細胞レベル、遺伝子レベルでの許し)なのだと。

 

 聖書の他の場所で「この人の目が先天的に見えないのは、本人の罪か、親の罪か」と尋ねられたキリストは、「だれの罪でもない。神のみわざが彼の上にあらわれるためである」と言って、手をおいて癒やしています(この引用もブログの別の場所にあります)。

 

 罪(=自己への裁き)というコンセプト自体を消し去る「許し」によって、ミラクルが細胞レベルで起きる。自分は悪くない、という許し。

 

 ここから、大嶋心理学特有の

「すべての不快は自分のものではない」「外在化することで自分を責めなくなる」というやり方が出てくるのだと思います。

 

「現代に合った脳のネットワークという外在化を使うことで、目の前の恐怖や不安が「全て脳のネットワークで伝わってきているもの!」と自分のものにしないことで、怒りや恐怖によって引き起こされる脳の過活動から解放されて、静かな脳の状態で世界を俯瞰してみることができるようになります。」

 

「心理療法の”外在化”のテクニックは、”意識”していて苦しくなっている状態から”無意識さん”に任せちゃって楽になる!という仕組みになっています。」

 

 「無意識さん」にまかせて過呼吸が楽になった幼児体験も書かれており、キリストや聖人の許しは、大嶋心理学で「無意識さん」になっていったように思います。

 

・「心よ!」は「無意識さん」の出向先。そう思うとほっと温かくなります。