空間はあめ細工————いくらでも自分の空間を創りだし、「巣」を持てる『TOKYO一坪遺産』 | hermioneのブログ  かるやかな意識のグリッド(の風)にのる

hermioneのブログ  かるやかな意識のグリッド(の風)にのる

バシャーリアン。読むことで意識が変わるようなファンタジーや物語に出会ってゆきたい。

うさぎ小屋に住むわたしたち日本人。ヨーロッパの大聖堂の穹窿やビルのすがすがしい吹き抜け、そんな空間に憧れる。

しかし、どうしても空間がない。

そう思っていたとき、異能の建築家、坂口恭平に出会った。

 

 

坂口は「空間はいくらでも体の周りに作り出せる」という。

 

 

小学生のころ、彼は六畳一間に弟妹と三人で同居していた。机が三つにピアノまであった。どうにも動きがとれない。そんなとき、彼は唯一自由になる場所「学習机」を「一人でゆっくりできる空間に変化」させることを思いつく。

 それで図工の授業で使っていた画板を机と椅子の背のあいだに掛け、これを屋根にし、毛布をその上からかけた。するとそこは洞窟のような場所に変身。床にふとんをしいた。(下の図)

 

 

蛍光灯スタンドを持ち込み、そこで食事をし、寝る。まるで潜水艦のコックピットだ。

既製の空間に自分の身体を置くのではなく、逆だ。自分の体のまわりに空間を引き寄せる。

体感的に自分中心の、独自の空間を創り出す。これは凄い逆転の発想だ。

(あっ、やってみたい。このページを読んでワクワクした。)

 

「狭いと思っていた机の下は、そこに身を置くととても心地よい空間だった。さらに洞窟の隙間から、外を眺めると、いつもの混沌とした子供部屋ではなく、まるでサバンナの荒野のように感じられたのだ。」

 

 普通に椅子にすわり、机に向かうという定番の空間は、広大な自分仕様の空間に変身した。目の前の空間には無数の、自分の知らない、気付いていない、見えない空間が隠されていた!

 

 これが彼の出発点だった。

 

 子供ならだれでも思い当たるのではないだろうか。

 

 本書『TOKYO一坪遺産』は、著者が東京を歩いて、一坪くらいの空間を使いこなして安住自足しているケースをルポしたもの。ベニヤ板の「隅田川0円ハウス」は三畳間だが、ドアの内側やありとあらゆる隙間が活用されたうえ、近くの公衆トイレや水飲み場、細かな都市のアメニティにネットワークの触手を伸ばしている。「中野のパーキングガーデン」は、庭がないために車上を鉢植えで埋め尽くし、車本体が見えない家。まるで密林だ。車は毎日使うので、そのつど鉢は移動するが、駐車場と庭を両立させている。

 その他パラソルの下が超機能的に道具を配置した空間になっている東京駅の靴磨きのおじさんとか、ビニールシートの上の一坪から成る怪しい蚤の市、新宿歌舞伎町の移動宝くじ売り場(コンパクトな空間の典型)、世田谷のミニチュア天国(壁にかけたギターの中に、ドールハウスが作りこんである)、豆本作家の世界などなど。

 ああ、ござ一枚の上のおままごと感覚がなつかしい。とほうもなく豊かで凝縮された世界。

 

 

 だがこれは、小さな空間でも無限大だ、といいたい哲学とは少し違う。

 

 

 空間は規格品じゃない、ということが建築家の目から主張されている。「生活するための箱」では順番が逆。箱、さきにありき、ではない。

 生活する体の延長として、あとからもうひとつの空間を創りだしてゆくべきだ。

 生き物が巣を作るように。「巣」をはりめぐらす空間。世界=空間は自分で創る。

 

 十年ほど前、自分がリフォームのために一部屋から物を撤収したときに、がらんとなったそこが異様に(客観的には)狭かったことに驚いた。そこには多くのものがクラインの壺のように、腸のように、ねじくれながら配置されていたのだ。

 

 ということ含め、少しあまのじゃくに言いたいのは、モデルルームみたいな断捨離部屋は、実は空間が死んでいるんじゃないか? 「箱」になっているのじゃないかということも。

 

 なお本書のエピソードの中で、もっとも眩暈を誘われたのは、閉じた缶詰のからっぽの内側にラベルが貼ってあるオブジェ。ややこしいが、世界は缶詰の外にあるのか、中にあるのか。

 稲垣足穂だ。

 この缶詰に思いをめぐらすだけで、複数の空間の捉え方がある(自分で選択できる)ことを実感できる。

 

 

坂口恭平『TOKYO一坪遺産』春秋社 2009 集英社文庫 2013