今の世の中は
 「何でもいいわけではない」
 をどんどん無くしていこうとする
 世の中で。

 代替可能性を極限まで推し進める。
 資本主義の原則というのはそういうもの。

 どこにでもあるような、誰でも分かって
 安易に欲しいと思うものを
 できたら簡単につくって
 いかに大量に、高値で売り抜くか。

 もう究極は商売でさえない 
 投資でさえもない
 今莫大な富をどんどん蓄積している人々は
 寝てても忘れててもますます金利で
 資産が増えていってるって
 そういう世の中で

 株価と実体経済の乖離をスルーして
 目下浮かれてる、どうも真面目に
 ものを考えているようには見えない政府の国で

 ものづくりや文化に寄り添うことは
 ある種の反時代的行為でしかない。

 こだわりや高品質を売りにするところこそ
 賢く採算を考えないとすぐ潰れる。
 正直にこだわってどうするwってね。
 もうエルメスもダイヤモンドもヴァンクリも
 アメニティを売りにする高級旅館でさえも
 そういう病理から逃れられないと思います。

 まあ、もういいものが高いんじゃなくて
 高いものをいいものだと信じて課金する
 倒錯が常態化してるんで。大昔
 柄谷行人のマルクス論だかが言ってたように
 商品価値とはAを「いくら」で等価で結ぶ
 暗闇への跳躍であって
 そこには究極的には根拠はない。

 そんなマクベスばりに狂った世の中、
 「高きもの」へと向かおうとする
 人間の意地とか試行錯誤みたいなものが
 狂気に近い、ど贅沢になる時代はすぐそこ。
 人工知能様のお姿をそこかしこで垣間見る
 この頃は特にそう思う。

 もう人間でさえも「何でもいいわけではない」
 ってことでもなくて
 ヒューマニティも機械技術と代替可能ってこと
 になりそうですしね😇

 さて
 私が今夢中な、ホンモノの雅楽の本物感、
 どの辺から来てるのかしらとあれこれ
 考えるとき、
 「舌(ろぜつ)」問題は
 ひとつのヒントを与えてくれる。

 雅楽の主要な楽器のひとつである
 篳篥(ひちりき)という不思議な笛のリードである
 「舌(ろぜつ)」はその辺では売っていなくて、
 演奏する方たちが自作するそうなんですが
 その材料自体がかなり特殊なものだそうで。
 草なら何でもいいわけではなく
 ヨシっていう植物から作るらしいんですが、

 これです。
 それプラス、ヨシなら何でもいいわけでは
 ないそうで。鵜殿っていう
 この場所の、一定条件満たしたものがどうしても
 必要なそうです。

 しかもその辺に生えてるの適当に採れば?という
 わけにはいかず、大規模に野焼きを
 したり、生息地の手入れをマメにしないと
 すぐダメになるデリケートな草らしいんだわ。
 それをずっと採算度外視、つまり
 市民の有志の方々が守っているそうです。
 かつてここに高速道路を通すという案があって
 反対運動が行われてきた経緯もあり、今後も
 継続的な保護活動が望まれているとか。

 楽器ができない私はこのリードが
 どのくらい実際に特別なのか理解することは
 できないんですが、
 こういうこだわり、
 必ずしも万人が理解しないような
 「何でもいいわけではない」
 をひとつ、またひとつと忘却していくことで
 文化はある日いきなりメタメタに
 崩壊するということは理解できます。

 逆に言えば
 雅楽というのはそういうこだわりを
 奇跡的に千年スパンで
 細々と守り続けてきた驚異の芸能なんですね
 ということ。

 長い伝統だから即これからもみんなが
 守らなきゃいけないね、とか
 そういうことは私は思いませんが

 こうやって直近の事例を少し
 見るだけで
 随所にかつてそれを守ってきた人間たちの
 意志の痕跡を見いだすことができる。
 「私がやらなければ誰がやる」の
 堆積した念とか想いみたいなものを
 感じざるを得ない。

 だいたい
 雅楽は商売と一番遠い音楽だと思います。
 大口のクライアントが神仏皇室ってこともあるけど
 それを専門に学ぶことも難しいし
 それを稼業にして
 生計を立てている人はほとんどいない。
 宮内庁の公務員の方々でさえも洋楽のお仕事
 との兼任だそうです。

 たしかに格式のある団体の代表者は
 やんごとないご由緒バリバリの異世界🙄や
 聖域に住まう方々かもしれませんが、
 雅楽は合奏である以上、
 実際に演奏してる大部分の方々は
 それ一本を生業にしているというより
 就業後に変身モノよろしく狩衣に着替えて
 あの珍しい、楽譜さえも暗号みたいな
 楽器を演奏されてるケースが
 多いかと。

 その方々は
 別に貴族でも妖精さんでもなく
 資本主義と民主主義の原則のもとで
 現代社会に生きる普通の市民の方々です。
 もっとそういう方々の声とか顔とかを
 知りたいし、何で雅楽されてるのか
 お聞きしてみたいですね。

 ポップではない音楽家と言っても
 その辺のパンピーが
 想像するのはクラシック奏者が関の山。
 
 しかし雅楽はクラシックと違って
 むしろピンでキャラ立ち
 など望みもしないような無私の熟達した演奏家
 の底力に支えられてきた芸能である
 と言えるのでは?と思います。

 雅楽はそういう収益度外視の
 普通の人々の「熱い想い」に
 支えられて今日まで続いて来たんだろうなって
 とこが、私にとっては一番エモいポイント。

 (そのもっとも有名なケースが
 明治維新の神仏分離で断絶の危機にあった
 天王寺舞楽の伝統を引き継いだ
 大阪の民間団体、雅亮会の活動
 であることは昨年散々お話ししました。)

 私は贅沢が好きで豊かに生きたいと
 常日頃思っておりますんで
 義務ではなく贅沢のために
 今後はこういうエモい
 反時代的なこだわりや人の意志が凝縮したもの
 を擁護したいと思っています。
 
 そういう非効率性にしか人間性を見出せなくなる
 時代はすぐそこまで来ている気がしますので。