「この世界で「呼吸を合わせる」」

 グローバル化した世界は
 何処にでも行けるけれど
 何処にも寄る辺ない世界。

 こんにちは。では、さようなら。
 今度また世界のどこかで会えたら会いましょう。
 そう思わないとやってられない世界。

 先週パリで出会ったインフルエンサーの
 お姉さんにも。
 そういうのをすっごく感じました。

 お姉さんはお友達とのパーティーが
 終わって、みんなをそれぞれ他の国に見送って、
 ちょっと寂しくて、
 だから一人でホテルのカフェに来たの、
 っ言ってたんです。

 それで、私は子供が好きよ、
 って言って、娘と遊んでくれて。
 でも飼い猫の写真だけ見せてくれるってことは
 人間の伴侶や家族は近くにはいないんだと思った
 (彼氏は世界中に複数いるのかもw)。

 好きな時に好きな国や場所に行けて
 一人で何でも好きなように決めているような人
 こそ、孤独だと直感で悟った。

 だから初対面でお話ししてお互い束の間でも
 楽しく盛り上がったのかもね。


 近代社会で保証されている
 「個人」の権利。
 その純粋な形は「孤独」です。
 そして、「個人」の自律や自由は
 互いの競争や闘争をも前提としている。
 
 合法的な弱肉強食の原則のもとで
 バラバラな個人の都合のよさが
 徹底化された世界が今のグローバル化
 された資本主義の世界というわけで、
 今ある世界は皆の願望の当然の帰結。

 そこにあるのは、地縁どころか
 もはや国境にも縛られない人々の自由な
 連帯の可能性であり、同時に
 その不可能性であるのかも。

 さて。
 雅亮会のクラファンのレポートを拝読して
 思ったのは。

 上記のような図式に
 当てはまらない、というか、当てはめたのでは
 どうもうまくいかない「世界」というのが
 まだこの世にはあるのかも?ということ。
 
 レポートにあった表現

 雅楽は指揮者のいないオーケストラですので、お互いの音を聞き合わせながら演奏を進めていきます。また、ご披露する舞楽はその演奏に合わせて舞いますので、舞人との呼吸を合わせる事も大変重要になります。

 人々が「呼吸を合わせる」ということ。
 もしそんなことが本当に可能なら、
 それは「連帯」の究極の表現であるはずで。

 これほど個人の
 スタンドプレーに意味がない
 表現、もしくは
 単推しwにほとんど意味がない世界も
 珍しいというか。

 むしろトリの一人舞で際立つためには
 他の芸術が「分業」で外注する部分も
 全てカバーした上で、最後の責任を負わないと
 いけないということなんだと。

 自分がエクセレントなだけでは
 ダメだとは…とんでもない重責😨

 (きっとそれが「個人」として
 他に抜きん出るとか、優越感とかそういう
 私が今までの人生で嫌というほど目にしてきた
 凡庸な東京等のエリートと
 私の推しのエートスが
 本質的に違う理由ではないかなあ?と思います。)
 
 これは
 日々厳しい競争にさらされ
 選抜に一喜一憂せざるを得ない
 西洋クラシックの楽器奏者はもとより
 オーケストラの団員でさえも、
 十分にはわからない世界ではないかな?と
 思います(友人のヴァイオリニストが
 言ってたけど、クラシックは結局、団体なく
 なっても優秀な個人は生き残れます、
 という発想だから)。

 ましてや、
 私がこれまでの人生で
 学んだ競争原理に偏った価値観からは到底
 理解できないものであるということ。職場の
 仕事の「チームワーク」だって
 あれは一種の契約と政治ですから。

 正直、私自身は、これまで
 他者達と「呼吸を合わせる」ことなどしようと
 思ったことも、それを経験したこともない
 (楽器ができるできないの問題ではなくて)。

 ですので。

 少なくとも今の時点では
 舞がいいとか悪いとかくらいしか
 言えない私には、
 雅楽(の理念)についてはまだ全然
 分かっていないことがある、
 そのことだけはよくわかりました。

 それは、
 たとえ劇場で上演され興行という形で
 商業ベースにのせられたものだとしても、
 もしかしたら本質的には
 「個人」の間の優劣や比較で判断され
 同一の基準上で絶えず過酷な選抜のための
 競争に晒される今風の芸術表現の世界には
 馴染まないものなのかも??

 仮にそうなら(まだよくわかりませんが)、

 その可能性や良さを
 伝えるためにはなおのこと、
 はっきりした差別化の定義が必要だ
 と感じます。

 「近代」へのアンチテーゼを
 積極的な魅力として捉え直すには
 どうしたらいいのだろう?
 

恒例のヴァイオリニスト友人との会話☟