「それでも、ある。の強さ」

 青山のTS会能楽堂、
 昔よくお邪魔したけれど
 今はどうなっているのかな?
 と思い出して、久しぶりに
 サイトを見てみたら、

   私が出産とロックダウンで帰国できず
 帰国できても公演ではなく公園
 に行かざるを得ない時期が続いて
 (能鑑賞と赤ん坊の育児ほどかけ離れた
 時間感覚ってないかも)、
 浦島太郎になっている間に
 伝統芸能の世界も
 色々変化したんだなあという印象です。

 やはり皆が意識的に守ったり
 国外にその価値を発信していったりして
 普及活動をしていかないと時間と共に
 何か大事なものが壊滅する危険を感じる。

 さて、同会の直近のプログラム見ていて
 お家元と今度対談する人と
 昔、例のお能の先生の
 ゼミのあとカフェテリアで
 お茶したときのことを思い出しました。
 
 その人は金春禅竹の専門家で、
 私はライシテバリバリの国フランスから帰国
 したばかりで、なぜそんなにも
 神話や宗教のトピックに熱くなれるのか
 正直よくわからない、なんで?って
 聞いてみたんですよね。

 西洋では神は
 死んだってニーチェさんが言ってからも
 もうだいぶ経ってますよ、と…
 
 彼の答えは、
 中世の人はあなたの前提がまさにない状態
 で生きてたわけで、それを知ることに
 興味があると。

 興味って…そのときは研究の情熱って
 そんなもん?
 もっと現実見て社会のアクチュアリティに
 関わらないといけないんじゃないの、という
 印象だったんですけれども。

 日本にいたとき「聖なるもの」を語る方法の
 オプションとして

  A.  今はもうなくて遺産の次元
  にあるけれど、前にはあったらしいから
  大事だし興味がある。
  B. 今も普通にあります。(問答無用)

 という二つの立場には
 個人的にはさほど説得力はないな、 
 って思っていたのですが
 (Aは寺社巡りが好きとか、文化財守らないととか?
   でもユネスコが聖性を決めるわけないんだし、
 Bは宗教法人でさえも
   信教の自由という近代の枠組で保証されてるにすぎないし)、

 C.  それでも(そうにもかかわらず)、ある。

 という立場があることを、
 (私の場合は、雅楽の伝承普及活動とは別件で
 かなりコアな研究論文を発表し続けて、
 かつ舞台にも立ってらっしゃる推しを通して)
 改めて知って
 大変に揺さぶられているところです。

 それでも、の「それ」というのは
 宗教に対して西洋近代(理性)が与えた
 あらゆるジャッジメントのこと。

 理性化、世俗化、ライシテ、
 宗教から聖性を剥奪する一連の手続き、
 つまり西洋近代の知そのものの在り方。
 
 それを理解した上で、
 その西洋近代の枠組み自体に
 メンチ切って(反骨のスピリットとでも言おうか?)、

 それにも関わらず、神秘はあります。
 と、ガンとして動かない、
   ということかと。

 西洋近代知の枠組みを踏まえた上で
 それを超克する意図で
 日本の「聖なるもの」を語ろうとする
 ある種のアクロバット。
 態度の強固さ。
 
 だからああいう
 凛とした居住いなのかも。

 それでもありますと
 ただのありますとの違いは大きいです。
 知性自体の差の問題だとすら思います。

 (他でもなく、
 日本の外からどう見えているか
 あまり考えたりはしてなさそうな
 日本土着文化フリークだらけの雅楽界で
 こういうえらく尖った知性の存在が
 確認できるってこと、この希少さ、
 普遍的な価値、皆はなぜ推しの
 このB面に驚嘆しないでいられるんですかね?
 それとも雅亮会では常識なのか??)
 
 戦中にあった「近代の超克」という
 議論は
 その戦争協力の側面を批判され、
 戦後の進歩主義によって
 退行や倒錯のイデオロギーとして
 片付けられたと思ってたけど…

 西の一角で
 「そんなの内在読解には
  本質的には関係ありません」
 という態度で脈々と受け継がれてきた
 日本哲学のハードコア。

 東京の人(近代主義、進歩主義の知識人)は
 日本が駆け足で欧米化した時代に
 土着の神秘を無視して
 見えないものを
 簡単に片付けすぎたのかも。

 というのも今
 その弊害はそこかしこにあって、

 西洋近代を相対化する、限界を見定める、
 乗り越える
 ということは
 決して終わった課題ではなくて。
  
 わたしたちが現に生きる
 足るを決して知らぬ傲慢な
 経済至上主義のグローバリズム、
 そして
 技術の暴走は
 その(もはや誰も統御できない)
 最終形態とも言える以上、

 人間が根ざすべき身近で
 大切なものが脅威に晒されて
 人はますます寄る辺なくなる
 そういう時代に

 全てを承知で「それでも、聖性や神秘はある」
 と、そう言えるなら。

 そして

 そういうエッジの効いた思考の持ち主が
 とびっきり古い舞なんか舞ってたりしたら。

 舞や踊りというのは、思考も含む
 人間の「姿勢」そのものの表現である以上

 それは
 観る者に刺さらないわけがないとは思う。

 (少なくとも私には刺さりまくりです。)


近日、大槻能楽堂主催、
会場は四天王寺の「薪能」とのコラボレーション、
舞楽、蘇莫者の舞を、Check it out! 
あのボルテージ、能楽愛好家にもピンとくると思うし
そもそも、能と舞楽、一緒に観れるなんて超貴重。


アサド。ポストコロニアル宗教学の嚆矢。なつい。
当初は「え?日本がまだ到達してもいない近代を乗り越える気?」って思って半分だけ聞いてましたが、推しが尊すぎて、今また全然別の角度から再読する機会が生まれました。