「推し活って言葉ができる前の話 2」

 日本にいたとき
 日本中世史の院ゼミに出入りしてたことがあって
 能が好きだったからなんですけれど
 
 そのゼミの先生が
 まさに推し活の鏡、パイオニアのような
 方で、今、懐かしく思い出されてきました。

 きっかけは
 「昭和の世阿弥」
 観世寿夫の舞台を観て
 ズッキューーーーンと
 恋に落ちて
 追っかけに変貌し
 果ては専門家になっちまったそうです。

 どんだけ〜
 
 研究は基本は地味な作業。
 文献を一文ずつ読んで
 先行研究と辞典参照して解釈つけて
 ってゼミだったので
 法政の研究所に何度も
 行きましたし
 古文書がお付き合いの相手なのに

 その先生が大好きな話題は実は
 世阿弥の風姿が
 どのくらい「映え」だったかという
 ことw

 もう目がキラキラしてきて
 大好きが止まらないw
 早口になって誰にも止められない〜

 後戸問題とかまたらじんとか
 秦河勝とか

 古典芸能はかしこまった窮屈でお上品なもの
 ではなくて むしろ逆に
 何か根源的な荒々しいものを垣間見せる
 スリリングなもの〜 
 それってなあに〜 というのを学んだゼミで

 そんなネタで盛り上がったのも
 もう15年以上も前… 

 時代的には能より
 雅楽が先だから当たり前と言えばそうですけれど
 その時は私は大阪に行ったこともなく
 その後またすぐ海外へ。

 まさか雅楽でまたこのテーマに
 再会するなんて。

 

昨年の公演



ネット上で全部動画みれます。


 その能の先生は
 素敵な本をお書きになっていて
 才能溢れる方でしたが

 何に一番共感するかって
 能を「萌え」の視点で観てた点w

 時代考証とか二次研究とか
 山ほどあって普通は正しいこと新しいことを
 いうべきでそうすると
 がんじがらめになってくのに
 そういう中学生的なw感覚をいつまでも
 忘れないところ。

 いつも
 そこかよ!!!でも分かるぜ!!!
 って思っていました。

 芸能の感動ってとてもシンプルなもので
 昔も今もそれほど変わらないのかもしれない
 けれど、

 伝承は厄介で
 古文書や言い伝えや口伝のお稽古から
 体感を蘇らせたり感動を呼び起こす
 のはものすごく大変なことで

 残酷なことに
 世襲の場合は実は
 パフォーマンスに
 皆が向いてるわけでもなかったりするから
 余計にややこしくて
 
 ぶっちゃけ
 大概の古典芸能は単なるリーマンのお勤め風情で
 観てて信じられないほど🥱退屈なんですが、

 今回の私のように運が良ければ
 ホンモノに出会える。

 現代のアイドルとかのそれと違うところは
 そういうパフォーマーの後ろには亡霊みたいに
 歴史の厚みが立ち現れてくるところ。

 観た者が自分の根っこに繋がりを
 感じざるを得なくするような喚起力というか
 
 この先に掘り起こしたいこと
 知りたいことが目の前の
 パフォーマンスを超えて広がっていく感じ。
 
 そういう才能に一度でも触れて
 萌え〜で満たされた人は幸せ〜 

 私は今日本にもういないけれど

 自分の沼落ちをきっかけに
 その先生のこと
 本当に
 懐かしく思い出しています。

 お元気かな〜
 
 観世寿夫の文章も良いです。生まれ、イケメン、知性、センス、努力家、、カリスマになるための全てを持ってた人だったけど53歳で亡くなった。