老化を重ねて醜さを重ねていくという残酷さ、ただその重ねるという行為にすら永遠というものは、あるのかもしれない。IとYouの未来に、描かれた空白、例え優秀な画家でも描くことはできない、だからIは写真というものを空白に張り合わせていった、記憶や過去という果てしない程の時間の中の一瞬を何度も何度も重ねる作業。美しい一瞬を重ね、重ね、それでも人は醜く年老いていく。
ただそのIの行為においては、真逆なのである。時間を遡るというタブーである。未来へ漂流していく人々に背を向ける行為は彼らには醜く映るのだろう。醜くとも変化していくことを永遠と呼び事を正しいと、いつしか正しいものは美しいと。
だが静止という行為を伴う死に永遠はあるのだろうか、永遠に変わらない過去と、何が違うのだろうか。Youの中でIは殺された、生死とは無縁の静止、未来にも過去にも存在しない、ただその狭間で横切る、香り、フラッシュバック、頭痛、動悸、目眩、により呼び起こされる脳裏の闇に映る瞬間の絵。その絵はやはりさ迷うのである、過去と未来の狭間を。殺されたI以外の人間がその絵に色を塗ろうとも、誰として、色を知らないのだ。
白と黒で描かれた、さ迷う絵。赤には血を、青には涙を、黄色には光を、。つまり色というものは個人の存在と世界なのである。
世界に対して自己犠牲を払うことで一つの色を手にするのだ。
孤独とは混じり得ないほどに輝く色であるということは、言うまでもない。虹の色は孤独の集合体である、混じり合わない色が繋がり合う。
かつてはIとYouの未来は虹が射していた、ただそれは眩しさあまりの光の有り余った幻だったのかもしれない、その先はいつかの未来へ繋がっていた。未来はなかったのである、ただ今というものが茫然と立ち尽くしているだけなのである。未来というものはないのである、夢見心地に思い浮かべるキャンディーのような甘い夢をただ未来と呼ぶだけである。
Iは冷たいベッドの上で遠い過去の夢から覚めたのです。あたたかな過去は羽根に包まれたヌクモリのようで、やがて卵から孵り去っていくよう。
Iの胎内から響く痛みは老婆のしゃがれ声で囁く音階の木枯らし。やがてその痛みも産み出すという痛みと共に生を授かり消えていく、産み出された小さな生の描く笑顔は忘却の夕暮れ空に弧を描くのでしょう。
胎内に芽生えた存在はもはやIの遺伝子の一部なのである。それはつまり、Iを形成するということ。胃袋を切り裂く痛みはこの全身、全精神に転移したこの遺伝子の記憶であるゆえに、削除、もしくは吐き出すことで、癌を産み出すのである。
そして癌に、もたらされる小さな死、小さな再生。同一の肉体を酷使し行われる、死と再生は肉体の老化を呼び起こす。
無垢な老化は、美しい。やがて再生を繰り返す毎に未来の死をイメージし始める、そして老化は醜くなっていく。

Iは此処にいますが、其処にもいます。

弧高でもありますが、底でもあります。

Iは此処に今います、つい少し前まで其処にいました。YOUとは其処で出会いました。

YOUはまだ其処にいますか?

何か其処にIは忘れ物をしてきたようです。何も其処には残っていないですか?

それにしても此処の居心地が悪いのは、Iのどこかが欠落しているからでしょうか?

何か無くした気がしてならないのです、其処で。

其処にいけば此処にはいれませぬ。近頃は首輪がキツイので其処へ行けませぬ。

なので、Iは吠えるのです、遠吠えも負け犬のように。犬の声は人間にはとてもオカシな響きでしょうね。

それも負け犬の遠吠えともなれば、腹を抱えてエサも投げず替わりに、くだらない言葉やゴミを残すのでしょうね。

ボロボロに汚れ、ただ空を眺めるIの狂気は夕日のよう、とても赤い。

赤い月がわたしの目に映る日は狂うのでしょう。首が焼け落ちるほど喉を痛めつけて声を遠くへ。

此処から其処へ、もう一度。