12月22日から24日まで、熊野古道伊勢路を主に旅した。今回の旅行先を計画したのは、梅原猛著『日本の原郷 熊野』(新潮社 とんぼの本)を読んでいたときに、花窟神社という巨岩が御神体で、社殿のない神社を知って、ミステリアスに感じ、是非とも、この目で観たいと思ったからであった。3月に初めて熊野古道中辺路を歩いてから、何か熊野に引き寄せられているように感じてならない。しかし、中辺路の方は、歩行時間も長く、今は日も短いので断念し、それでは伊勢路なら、峠越えコースも短時間ですむということで、花窟神社と人気の高い2つの峠越えを組み合わせて、歩くことにした。さらに、松本峠からは、古道を離れて下り、鬼ヶ城という海岸線の大岩壁に沿う遊歩道を歩くことができた。
旅行初日は、時間の余裕があったので、新宮市にある神倉神社にお参りした。この神社は、ゴトビキ(「ひきがえる」の意)岩という巨岩が御神体で、そこまで達するには、538段の急峻な階段(源頼朝が寄進したと伝えられる)を登らねばならない。実際、登ってみて、最初の5分あまりは、確かに大小さまざまな形をした石からなる急角度の階段を登るのだが、その後は、それほどきつい感じはしなかった。15分足らずで登れた。毎朝、1時間半のジョギングをしてきた成果が現れたのか、息が切れることはなかった。ただ雨天の日は、滑るのでかなり要注意である。ゴトビキ岩の前には、カラフルに塗られた社殿があった。そこから、新宮市街が見下ろせ、その向こうには青い海が広がっていた。登りよりも、下りの方が、きつかった。転倒したら、大怪我しそうだ。なるべく横向きになって、恐る恐る下った。足を着地する石を見極めるのが大切だった。無事に降り切った時には、大きなため息が出た。御朱印は、歩いて10分ほどにある熊野速玉大社でいただいた。神倉神社は、速玉大社の摂社だが、神々が最初に降臨した、熊野信仰の始まりの地である。
この後、宿泊先の「鬼のさんぽみち」(近くに鬼ヶ城があるからであろう、心憎いネーミングだ)に向かう。熊野市駅に車で迎えに来てくれた。おもてなしの心に溢れた宿だった。着くとすぐ、ウェルカムチーズケーキを出してくれた。翌日の峠越えの相談にも親切に応じていただいた。部屋からは、海岸の眺望が楽しめた。
23日朝、7時に宿を出て、ちょっと国道を歩いて、松本峠登り口に。曇天のため、その峠道は暗く怖いほどだった。結構急な石畳道が10分ほど続いた。頂上の松本峠には、大きく立派な地蔵が立っていた。暗がりだったので、赤い布(前掛け)が余計鮮やかに見えた。その後、鬼ヶ城へ至る道を進んでいく。途中、七里御浜が見下ろせる東屋や、正面に熊野灘が広がる展望台があった(鬼が城跡)。そこからは急な下り道だが、春になると桜が咲く名所だそうだ。そして鬼ヶ城入口(東口)に着く。掲示板があり、今日は遊歩道通行可能とあった。海食崖を次々とぬって行く、30分ほどの遊歩道だ。とはいっても、道幅50cmほどしかないところがいくつもあり、打ち寄せる波の轟音がして、恐怖を感じ、ヒヤヒヤしながら進んで行った。万一南海トラフ大地震が起こったら、絶対助かりそうにない、と思うばかりで人一倍臆病で心配性の僕は、この大自然が生んだ奇観を十分に楽しむことができなかったのは本当に情けない。岩場で、海釣りをしている単独の人の姿が見えた(あの人はそんなことは一切思わず、釣りに全神経を集中させていたのだろうな)。怖いながらも、立ち止まって動画や写真を撮った。遊歩道を歩き終えるのに、所要の倍1時間近くかかってしまった。
熊野市街を通過して、七里御浜の方に向かう。獅子岩が見えた。まさしく海に向かって吼えている姿だ。高さ25mの奇岩。熊野には、本当に奇岩や巨岩が多く、自然信仰が生まれたことがよく理解できる。砂浜にあったので、近づいてみると、もう咆哮する姿には見えない。さてそこからまもなくすると、花窟神社で、国道のすぐそばにある。門を入ると、灯籠の灯明がついていて、神妙な気持ちになった。御朱印やお守りを授与するところを過ぎると、正面に土色をした巨大な岩(凝灰岩か?)が目に入った。巨岩の基部には、大きな窪みがあって、そこが、神々の母イザナミノミコトを葬ったところとされ、白石を敷き詰めて玉垣で囲った拝所が設けられている。その対面には、イザナミノミコトが生んだ火の神カグツチノミコトを祀った拝所があった。巨岩は高さ45mもあり、所々に穴がぽっかり空いているのが印象的だった。この巨岩が「陰石」であり、神倉神社のゴトビキ岩が「陽石」として、一対をなすともいわれる。上を見上げると、綱が巨岩から架かっているのが見えた。後で知ったが、2月と10月にお綱掛け神事が行われるという。是非とも参加してお綱を引かせていただきたいものだ。
丸石のお守りをいただく。後で知ったが、大谷翔平選手が、花巻東高校時代、この神社の丸石に触れたことで、160キロの速球が投げられるようになったのだという逸話があるそうだ。神主さんは気さくな方で、最寄りの有井駅の場所を尋ねると、紙に地図を書いた上に、口頭で説明してくださった。また必ず参拝できますように。
神社の道路を隔てて相向かいにある道の駅(外観からは道の駅とは思えない)で、団子などを食べて昼食を済ませ、11時26分の電車で尾鷲方面に。12時32分、相賀駅で下車して、しばらく一般道歩き。13時17分ようやく馬越(まごせ)峠入口。ヒノキの美林の中、美しい石畳を歩けるので、伊勢路で一番人気が高いコースだという。松本峠より緩やかに昇っていくので、きつくはないし、心地よく歩ける。20分ほどして、夜泣き地蔵に着く。石積みの祠の中の地蔵の前に、哺乳瓶が置かれていた。時々、新しいものに替えられるという。ここを過ぎると、坂は次第に高度を上げていくが、辛いというほどではない。時折、沢を渡って、およそ1時間で峠(ここの表示板では332m)に達する。ここから頂上から絶景が楽しめる天狗倉(てんぐら)山や便石(びんし)山ー山頂付近に「象の背」という絶景スポットがあるーに至るコースが分岐している。今度またこの峠に来たら、この2つの山に登れるプランをたてよう。
ベンチで休み、大福を食べていたら、とうとう雨が降り出したが、小雨程度だった。ここからはやや急な下りが続き、石畳の整備も良くなく、転倒に気をつけたのだが、2、3度滑りころんでしまった。馬越峠越えするなら、絶対紀北町側から登ることをお勧めする。途中にある桜地蔵は、煉瓦の小さく苔むした祠の中にある。この後、コースをちょっと外れたところに不動滝があるわけなのだが、その案内板を見過ごしてしまった。いつのまにか舗装路の両脇が広い墓地のところに出ていた。そこから尾鷲駅までは、30分以上かかった。雨もやや強く降ってきた。毎月旅行をするようになって気がついたことだが、駅前の商店街を歩いていると、シャッターが下りている閉店状態の店が目立ち、おまけに人の姿も滅多に見えない。こうしたさびれている現実に接すると、こちらの心まで暗くなってくる。尾鷲駅を4時55分発に乗って、亀山(この名を聞くと、2000年代、家電のシャープが液晶テレビAQUOSを大々的に売り出していた頃を思い出さずにはいられない)駅に着いたのは、7時41分。宿泊するアパホテルは、多くが駅の間近にあるのだが、ここは500mほど歩いたところにあり、雨も降っていたので、着いたときには、ほっとした。
旅行最終日は、松阪市にある本居宣長記念館を訪ねてから、帰途についた。記念館は、松坂城跡の敷地内にあった。本居宣長が、どういう人柄の人物であったか、展示の説明もわかりやすく、通常の堅苦しい解説文ではなく、親しみがもてるように書かれていた。全国各地から、さまざまな階層の人々が宣長の講釈を聞きに集まったかがよく分かった。特別展示室に入るところに、「本居宣長はどんな人?}という、小学生向きの解説パネルが用意されていて、吉田松陰と似た面があるとか、鈴が好きだったとか、ともかく好奇心が極めて旺盛だったなど、とてもその人間性に親しみがわくような内容だった。一番印象的だったには、17歳のとき、作成した日本地図。地名や城主名などが詳細に書き込まれ、少年時の熱意が伝わってくる。従来の地図の誤りを正すのが作成の目的だったようだ。宣長の学問の原点が感じられた。宣長は、少年の頃から、謡曲を習い、和歌を詠み、青年期には、医学を修めて、医者となり、61歳のときには、和歌を添えた自画像を描くなど、国学、』古典文学だけでなく、極めて関心の幅の広い人物だった。各地から数多くの人が集まったのも、巧みな講釈で魅了したからであろう。記念館を訪ねて本当に良かった、宣長の真骨頂に一歩近づけた気がする。ブログでも、いつか、その人となりをもう少し掘り下げた記事を書きたいと思う。
松阪駅を発ったのは12時48分。自宅の最寄駅についたのが22時52分頃だから、帰りは10時間あまりかかったことになる。行きは新幹線だったが、帰りは快速と普通列車のみ。どうしてかといえば、JR東海が発行した冬限定2日間乗り放題の切符3900円を利用したためだ。けれども、一つ大きな誤解をしていた。僕は、東京駅もJR東海管内だと思い込んでいた。新幹線は確かにそうだったが、在来線は、東海道本線熱海駅までだった。東京駅で乗越精算をして1980円払った。上野東京ラインの上りに熱海始発が多い理由もようやく分かった。














