昭和64年12月下旬から平成元年1月初旬まで、友人と二人で北インドの旅に。

インドの首都デリーからタージ・マハルのあるアーグラ、

ブッタ(釈尊)が初めて説法をしたところ(初転法輪の地)があるサールナートをへて、

ヒンドゥー教最大の聖地、シヴァ神の聖都ワラ―ナシ―へ。

昭和65年(平成元年)1月7日、昭和天皇崩御のニュースをワラ―ナシ―のガンジス川のほとりで聞いた。

 

私はワーラーナシ―の火葬場マニカルニカーガードで、

死者が薪で焼かれるのを半日ほど眺めていた。

ときどき、燃えやすいように燃え切れない肢体を叩き割る人、

焼かれた肉の臭いに誘われた犬たちを追い払う人や、

遺灰をボートに載せ、ガンジス川の中ほどへ撒きに行く人などを飽きもせずに眺めていた。

この火葬場の近くには、死をまじかに迫った人々が宿泊する家がある。

「解脱の家」と呼ばれる。

「解脱の家」で死ぬまで過ごした後、薪で焼かれるのである。

火葬するお金がない死者は、そのまま水葬されるという。

いずれにせよ、死者は聖なるガンジス河に帰っていく。

死ぬとはこんなことなのだろうと、初めてぼんやりと思った。

 

そして、死ぬとはこんなことだろうと思ったのは、

母親や父親が、ボイラーで1時間ほど焼かれた後、骨と灰となった時だ。

 

私が死んだら、灰は、海にでも撒いてもらいたいと思っていたが。

朝、通勤電車の窓からみえる荒川。

もしかしたら、この荒川を見るのも最後かもしれないと、なぜかいつも思っている。

私の灰はその荒川に撒いてもらってもいいかもしれない。