力抜山兮気蓋世

 時不利兮騅不逝

 騅不逝兮可奈何

 虞兮虞兮奈若何


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力は山を抜き 気は世を蓋(おお)ふ

時に利あらずして 騅逝かず

騅(すい)逝かざるを奈何(いかん)すべき

虞(ぐ)や虞(ぐ)や 若(なんじ)を奈何せん


......................(項羽)

 

久しぶりに 歴史物の小説を読んで

気持ちを高ぶらせた。
浅田次郎の「壬生義士伝」だが、
一気に読んでしまった。


本の紹介は、
いや 紹介といったことではなく
自分への覚え書きと言った意味で
いつか 残しておきたいと思う。

壬生義士伝を読みながら、
今までにいちばん惹かれた歴史ドラマはなんだったろう? 
そう思い 記憶をたどってみた。


遠藤周作の「イエスの生涯」が良かった。
無力なイエス、愛に満ちたイエス
その姿に惹かれた。


しかし、胸を躍らせたというのなら
これは司馬遼太郎の「項羽と劉邦」だ。


中国という、広大な大地がその舞台だったから、
地図を広げ、項羽や劉邦がたどった道を思い描き、
何度も声を上げたことを思い出す。

さて、久しぶりにアップする「今日の詩」は、
項羽が残した この詩にした。
四面楚歌という言葉が生まれたその状況下で、
もう明日はないという 最後の夜、
項羽は舞いうたう。

本来 詩とは
こういったことを言うのだろう。
心が熱く陶酔し

感極まって口にする言葉こそ、詩だと思う。


騅(すい)とは 項羽の愛馬である。
そして 虞(ぐ)とは 
項羽が愛した 虞美人のことである。


「我百度(たび)勝てり」
項羽は言う(小説では七十余戦)。
「ただ一度敗るるは、天が我を滅ぼさんと欲すゆえなり」

「兮(けい)」という文字がある。
司馬遼太郎の解説によれば、これはかけ声である。
少しだけ、司馬の文章を抜粋する。


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「兮という間投詞が、ことばが切れるごとに入っている。兮は詩の気分に軽みをつける間投詞ではなく、むしろ作り手の項羽が、兮! と発声するごとに激情が一気に堰きとめられ、次いでつぎの句の感情にむかっていっそうに発揚する効果をもっている。項羽のこの場合の兮は、項羽のこのときの感情の激しさをあらわしているだけでなく、最後に虞姫に対し、その名を呼ぶことにいちいち兮を投入したのは、この詩が要するに、虞姫よ、この項羽の悲運などどうでもよい、この世にお前をのこすことだけが恨みだ、というただそれだけのことをこの詩によって言いたかったにちがいない。
 左右みな泣き、能(よ)く仰ぎ視るもの莫(な)し、という。左右は項羽が楚軍と自分自身の悲運をはげしく慷慨したこととしてみな共感したといえるが、「虞兮虞兮」と称えこまれた虞姫にとっては項羽が鉾を突き入れるようにして、彼女ひとりのために語りかけているとうけとったであろう。
 つまりは、死んでもらいたいということであった。
 このあと、敵の重囲を突破するにあたって虞姫をともなうことの不可能さは彼女自身もわかっている。項羽そのひとの生命もあと幾日のものか、たれにもわからない。項羽のいのちのはげしさは、彼女をこの世にのこして余人の手に触れることを戦慄して拒絶しているのである。
 そのことは、虞姫の心に了解(りょうげ)された。
 彼女は項羽の願望と自分のそれが一つであることを証すためにすぐさま立ちあがり、剣をとって舞い、舞いつつ項羽の即興詩を繰りかえしうたった。
 その所作が彼女の返答であることが項羽にわかった。
 彼女が舞いおさめると項羽は剣を抜き、一刀で斬りさげ、とどめを刺した。
 この男はそのまま帳をはねあげ、下へしたへと降りた。やがて騅にとび騎(の)ると、闇を蹄で蹴やぶるようにして城門を走り出た」

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 兮の解説を引用するだけのつもりが、長くなった。
 引用しながら、場面を思い描き、胸が締め付けられる。


 ある本には、虞姫は自害したと、


 また別の本には、
 「漢兵すでに地を略す
  四方楚歌の声
  大王意気尽く
  賤妾何ぞ生を聊(やす)んぜん」
  と唱和したとある。


 あるいは、虞姫はこの後生きながらえ、
 生涯項羽を慕い続けたと 書かれている記録もある。


 いずれ、虞姫がどういった存在なのかは わからない。

「美人」とは、側室の位階の名称だというが、
 実際のところは 女性であったのかどうかも 疑わしいと言う。


 史記を書いた司馬遷が、
 覇王と自らを称えた項羽が、

 最後の場面でその名を呼んだのなら、
 それは「美人」だろうと…そんな解釈でいいだろう。


 紀元前の出来事である。

 語り継がれる物語は、美しい方がいい。
 

    ..............(2002.11.19)