メッセージ:「亜麻布の手ぬぐい」…私たちは、まず愛されなければ、愛せはしない。 | 聖書と私とコーヒーと+ワン

聖書と私とコーヒーと+ワン

~「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ14:6)~

この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を
あなたがたに与えることができます。(Ⅱテモテ3:15)

貼付させて頂きました。

 

神は罪を知らない方を私たちのために罪とされましたそれは私たちがこの方にあって神の義となるためです

 

罪を何も犯さなかったイエスが、あなたの罪を負って十字架上で罪となりましただから、義を行っていないあなたが義となることができるのです

 

これがイエス・キリストの福音です

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伝道者のみなさん、牧師のみなさん。

福音を語りましょうよ。

「恵み」の福音をです。

私たちが語るべきなのは、恵みの福音です。

 

パウロは言いました。

”神の恵みの福音を証しする任務を全うできるなら…”

心からの「アーメン」を頂けますか?

 

by ジョセフ・プリンス

<約81分>

神様に導かれる方法 | Joseph Prince | New Creation TV 日本語 (youtube.com)

2024/07/12に公開済み 

ジョセフ・プリンスのメッセージ (全編)

 

困難な決断や問題に直面した時、神様から解決策を聞けたらいいと思いませんか?愛される者たち、それは可能なのです!

 

このメッセージでは、プリンス牧師が「神様のあなたへの愛を信頼すること」がどのようにして神様から答えを聞き、正しい決断を下す鍵であるのかを話してくれます。

 

イエスの揺るがない愛を信頼することが、どのようにあなたを力強い祈りへと導き、成功に繋がる選択ができるように導いてくれるかを発見していきいましょう。

 

あなた自身が神様に愛された者であることを「知ること」と「信じること」の違いを学びましょう

 

また、神様を遠くに感じてしまう難しいシーズンの中にあっても、神様の愛に身を委ねる方法を見出しましょう

 

このメッセージに励まされ、神様があなたの強力な味方であるという啓示を受けて、今日から実践的な知恵を歩んでいくのです! 

 

エピソードについて: 

・2024年2月18日のジョセフプリンス牧師の「神様に導かれよう」のメッセージです。 

00:00 01 はじめに: 神様の完了された業は、あなたの強固な土台 

13:00 02 あなたの召使の王であるイエスを、知っていこう 

24:46 03 神様の愛を差し伸べよう 

41:11 04 神様は愛をどう定義している? 

58:49 05 素晴らしい決断の下し方 

01:09:27 06 愛に始まる、神様の導き 

01:19:30 07 救いの祈り& 祝福のための祈り

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(めも)

水浴したものは、足以外洗う必要がありません全身がきよいのです。」

 

水浴=「聖霊による再生と刷新の洗い」

 

あなたは「完全にきよい」のだということを深く受け止めていますか?

 

私たちクリスチャンが毎日洗う必要があるのは、「足」だけですそしてそれは、私たち自身が洗うのではなく、イエスに洗ってもらうのです

 

こう祈ってください。

イエス、私の埃まみれの足を洗ってください

 

この「足」とは、あなたの地上における歩みを象徴しています

 

私たちは地上を歩む中で、あらゆる冒瀆を耳にします。あらゆる悪い言葉や、ネガティブな思考や、あらゆる神への疑いも耳にします。そのような中で地上に触れている私たちの足は汚れます

 

 

イエスは今でも自分に属する人たちに仕えています

 

イエスは言いました。

人の子は仕えられるためではなく、仕えるために来た

 

私たちは、イエスが私たち仕えることを受け入れることによってのみ、神の良い仕え人になれます

 

イエスはあなたの足を洗いたいのです

 

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「足を洗う」

イエスは言いました。

「それを行うならあなたがたは幸いです」

 

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手ぬぐい=ギリシャ語でlention=亜麻布=義の象徴

「輝くきよい亜麻布とは聖徒たちの義のことである」黙示録

・イザヤ書11章「主の霊の7つの層」

(イザヤ11:5→「義が彼の腰の帯となり…」)

あなたが腰を下げて誰かの足を洗う時つまり、

 

あなたが語る神の言葉によって誰かの足を洗うときその足を必ず亜麻布の手拭いで拭いてあげるようにしましょう

 

つまり、その人が自分はキリストにあって義であるという感覚を残してあげるのです

 

教会からそれぞれの場所に出て行く皆に、自分はキリストにあって義であるという感覚と共に出て行かせてあげましょう

 

罪悪感や「自分は汚れている」という感覚ではなく、自分はキリストにあって義であるという感覚と共にです

 

この亜麻布の手拭いを忘れないでください

 

どんなときにも福音のメッセージはそのように締めくくられるべきです

 

「ミニストリー」=何かを与え奉仕すること

 

悪魔は「義」とする「ミニストリー」を恐れていますだから、その教えを攻撃している

 

ローマ5:17

”もし一人(つまりアダム)の違反により、「死」が支配するようになったのなら、なおさらのこと、恵みと義の賜物(=dorea=無償の贈り物)をあふれるばかり受けている人たちは、一人の人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するようになるのです”

死が完全に支配していたのにも勝る形で、義の賜物を受けている人たちは、いのちにあって支配するようになる

 

悪魔がこの教えを攻撃しているのは、これが理由です

黙示録1章

イエスは、私たちを愛し、その血によって私たちを罪から解き放ち、私たちを王とし、ご自身の父である神に仕える祭司としてくださった

私たちは今王として、キリストと共に座らされています

 

人々の足を洗うときは、亜麻布の手拭いで拭きましょう

 

こう言ってください

わたしは、キリストにあって神の義だ

 

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「新しい戒め」

イエスが愛してくれたように

互いに愛しあう

 

「古い戒め」

「自分自身を愛するように互いに愛し合いなさい」

「自分自分自分」という教えは古い契約のやり方です

 

今日私たちは皮肉にも、「イエスが愛してくれたように互いに愛し合う」という新しい戒めを「自分自身を愛するように隣人を愛する」という古いやり方で果たそうとしてしまっています

 

つまり、恵みの命令を律法のもとで果たそうとしているのです

 

 

イエスは言いました。

「新しい戒めを与える」

わたしがあなたがたを愛したように

あなたがたも互いに愛し合いなさい

 

あなたは自分に対するイエスの愛を理解することなく、愛することはできません

 

私たちは

まず愛されなければ愛せはしない

ということを

神は私たちに伝えてくれているのです

 

この愛は、

「わたしは君たちの罪に目を瞑るよ」

「なかったことにするよ」という愛ではありません。

 

この愛は、

私たちの罪を見た上で、

それをイエス・キリストの十字架で拭い去る愛です

 

その根拠があるから、

不敬虔な私たちが義と認められることができます。

 

皆さんは、神があなたを愛していると知っていますか?またそれを信じていますか?

 

神はあなたを愛しています

あなたはそれを信じますか?

 

「愛」とは

「イエスの存在」そのもの

のことなのです

 

詩篇91篇の現実。

いと高き方の隠れ場に座る者、

その人は全能者の陰に宿る

 

今日私たちがキリストと共に座しているその場所がこの隠れ場です。そして天上にあるすべての霊的祝福はキリストにあって私たちに与えられています。

 

だから、お願いするのではなく、宣言し始め、感謝し始めましょう

 

 

私たちが下す決断は、神の愛を根拠としているべきです

 

「神が私たちを愛している」という理解が不足しているがゆえに、私たちは直面する困難にどう対処してよいのかがわかりません。(特に教会においてです。)

 

 

あなたは自分の困難や疑念に対する答えを神に語ってもらいたいですか?

 

神は多くのことを隠しています。

真理は明かされています。

実体も明かされています。

旧約聖書で影だったものの実体は新約聖書で明かされています。

しかし多くの場合、影の方に、実体にはない詳細が秘められています。実体はただそれが何であるのかを物語っています。その中身を何であるかを知るためには影を見ます。

 

私たちの大祭司であるイエスについても旧約聖書で多くがわかります。

 

神は天国で大祭司としているイエスの描写を旧約聖書の大祭司で示しました。外部的な特徴はイエスの内部的な特徴を表しているにすぎません。

 

大祭司の「胸当て」を読み解く。

胸当てに埋め込まれた12の宝石

12の宝石=イスラエルの12部族。

「胸=心臓」は「愛」を表す。

 

私たちは、自分の兄弟姉妹たちをイエスの心臓に埋め込まれたものとして見る必要があります。私たちは彼らを大祭司の心臓の上に見なければならないのです。

 

そしてイエスは、自分の愛に埋め込まれた私たちのことを、尊い宝石のように見ているのです

 

イエスの前で私たちは皆同等に高価で尊いものですが、それぞれが特別であり独特であり個性的です。世界中にあなたと同じ人は存在せず、そのあなたを神はただ共同体の一部としてではなく、一人の個人として愛しています。

 

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「自分に対するイエスの愛に頼る」弟子ヨハネ

「自分のイエスに対する愛に頼る」弟子ペテロ

 

自分のイエスに対する愛に頼るとき、私たちは必ずイエスとの距離を感じてしまいます

 

私たちはもっと不動で不変で完全に固まった揺らぐことのない土台に頼る必要があります

そしてそれは、イエスの私たちに対する愛です

 

私たちのイエスへの愛は風のように揺れ動いてしまいます。またそれは風が吹くたびに吹き回される枝のようです。しかし、イエスのあなたに対する愛は定まって揺らぐことがありません。イエスはあなたを最後まで愛された。極限まで愛された。

 

私たちは「ヨハネ」と同じように、揺らがない土台に立つ必要があります

 

「律法を象徴している」ペテロ=「イエスに対する自分の愛に頼っているクリスチャン」を象徴しているペテロ

 

ヨハネに合図をおくったペテロ。

 

自分はイエスの弟子であると公言しながら、本当は救われていなくて、イエスを売ったり裏切ったりさえする人がいます。

 

だけど、イエスの胸によりかかっている弟子もいます。

 

あなたがイエスの胸によりかかるその弟子になることを励ましたい。

 

ダビデのストーリー。

前サムエル30章:

「胸当て」=出エジプト28:15

「決断を下すための胸当て」=「さばきの胸当て」

「ウリム=複数形の光」「トンミム=完璧」aleph-tav

「光たち」と「完璧」が大祭司の胸当て、決断を下すための胸当てに入っていた

 

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神に導かれた決断を下すための鍵は、イエスの愛の心に目を向けることだということです

 

あなたが何か神にお願いをするとき、

「恵みのことば」を付け加えてください

心を込めて言ってください。

そのことばとはコレです。

だってあなたは私を愛しているのだから

これによってあなたの信仰はこれまでにないほどに働き始めます。

 

ヨハネは自分に対するイエスの愛に依りかかったままイエスに答えを求めました。ヨハネは「自分のイエスに対する愛」ではなく「自分に対するイエスの愛」に頼ったのです

 

だから、あなたも次のように祈り始めてください。

「神さま、私はコレをすべきでしょうか?アレをすべきでしょうか?」「ここに行くべきですか?あそこに行くべきですか?」

「どうか私を導いて」

だってあなたは私を愛しているのだから

 

この一言はあなたの視点をひっくり返してくれます。

機械的ではダメです、心を込めて。

だってあなたは私を愛しているのだから

 

神は皆さんに伝えるようにと私にこれを示してくださいました。

 

私が自分を批判する人をどのように見ているか知っていますか?

イエスの胸当てにはめられた尊い宝石としてです。

私は自分を批判する人たちを言及するとき、いつもイエスの胸当てにはめられた尊い宝石と呼んでいます。

神にとって尊い存在は、私にとっても尊い存在です。

イエスが愛する存在なら、私も愛します

私は彼らに対して許せない思いも苦みもありません。

 

私たちは神の子どもたち皆を尊い存在として見なければいけません。あなたの子供たちや奥さん、旦那さんを尊い存在として見てください。彼らの失敗や欠点に囚われるのではなく、神が彼らを見ているように彼らを見るのです彼らはイエスの胸当てにはめられた尊く愛おしく美しい宝石なのです

 

なぜ?

イエスの義が彼らを覆っているからです

 

神に求めるとき、

まず第一に

誰にたいする苦みも抱えていないようにしましょう

 

私たちの愚かさにもかかわらずイエスは私たちを愛してくれているのだから、私たちも周りの人に同じようにしなければなりません彼らを尊い存在として見て、彼らの存在を神に感謝しましょう

 

あなたはただイエスに目を留めて、イエスについて行けばよいのです

 

敵は全力を尽くして、あなたがイエスから目を逸らすようにと働きかけてきます

 

神に願うとき こう言ってください。

「神さま、このことについて助けて」

だってあなたは私を愛しているのだから

 

イエスの愛に寄りかかってください

それがイエスの愛を使うということです。

 

知っていますか?

イエスは使ってもらうのが大好きです

それは

彼が愛と優しさで満ち溢れているからです

 

イエスにはすべての必要を満たすことができるのに、人々が自分で自分のことをなんとかしようとしているのを見るのがイエスはつらいのです

 

イエスは新しい戒めを与えました

イエスが私たちを愛したように、私たちも互いに愛し合うのです

 

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アーメン

ハレルヤ