サム上20章④35~42【ダビデとヨナタンの契約】…神の契約の重みを理解しようではありませんか。 | 聖書と私とコーヒーと+ワン

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~「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ14:6)~

この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を
あなたがたに与えることができます。(Ⅱテモテ3:15)

 

サムエル記上20章35~42節

〔新共同訳〕

ダビデとヨナタン】(4)

35翌朝取り決めた時刻に、ヨナタンは年若い従者を連れて野に出た。 36「矢を射るから走って行って見つけ出して来い」と言いつけると、従者は駆け出した。ヨナタンは彼を越えるように矢を射た。 

 

37ヨナタンの射た矢の辺りに少年が着くと、ヨナタンは後ろから呼ばわった。「矢はお前のもっと先ではないか。」 38ヨナタンは従者の後ろから、「早くしろ、急げ、立ち止まるな」と声をかけた。従者は矢を拾い上げ、主人のところに戻って来た。 

 

39従者は何も知らなかったが、ダビデとヨナタンはその意味を知っていた。 40ヨナタンは武器を従者に渡すと、「町に持って帰ってくれ」と言った。 

 

41従者が帰って行くと、ダビデは南側から出て来て地にひれ伏し、三度礼をした。彼らは互いに口づけし、共に泣いた。ダビデはいっそう激しく泣いた。 

 

42ヨナタンは言った。「安らかに行ってくれわたしとあなたの間にも、わたしの子孫とあなたの子孫の間にも、主がとこしえにおられると主の御名によって誓い合ったのだから。」

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(聖句雑感)

「三度」の「礼」。

 

(つい、三国志の「三顧の礼」を思い出しますが…。

それは、ともかく……。)

 

「ヨナタン」という味方を主はたててくださって、「ダビデ」を守られた。一方、ヨナタンは父のサウル王と運命を共にする。

 

悲しいなぁ、と思う。

実に、悲しい。

 

聖書の中にはいろんな登場人物の悲喜こもごもがある。

その人生の終わりも良し悪しにつけ劇的な人々もいる。

 

自らが予想しない終わり方に直面するときでも、その最期の瞬間に「我主に従えり」「主に栄光あれ」と心から叫べる人は幸いではなかろうか。

 

新約聖書の使徒ペテロさん。

彼は、その最期をイエスさまから預言されていました。

そして、その通りの「死」を遂げました。

壮絶な最後ですが、彼は「成し遂げた」。

 

使徒たちの最後をみると皆、壮絶。

しょうじきに…、

これで、

「愛」を語り、

「平和」を語り、

「幸せ」を語れるのだろうか…と

思ってしまうときもある、いまだに。

 

この複雑怪奇な「喜び」、

彼らの持っていたこの「喜び」を 

どのように「人」は理解することができよう…?

 

 

ふと「ステパノ」が頭をよぎる。

彼の最期の姿はどうであったか…。

その殉教の様子は「使徒言行録7章」に描かれている。

 

使徒言行録7:54-60(新共同訳)

54人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした。

 

55ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て56天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見えると言った

 

57人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、58都の外に引きずり出して石を投げ始めた。証人たちは、自分の着ている者をサウロという若者の足もとに置いた

 

59人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて主イエスよわたしの霊をお受けください」と言った60それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでくださいと大声で叫んだステファノはこう言って、眠りについた

 

8:1サウロは、ステファノの殺害に賛成していた。

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こにに登場する「サウロ」という若者が、後に異邦人のための大使徒パウロとなります。実に、神の摂理の言い難き「妙」を思います。

 

マタイ福音書5章にあります。

「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る」

 

ステパノさんは、「神を見た」。

天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える。

見える「主」に向かって呼びかける。

主イエスよ、わたしの霊をお受けください。

そして、究極の言葉を発する。

主よ、この罪を彼らに負わせないでください。

 

この一連の流れ、主イエスさまの最期と重なります。

主イエスの弟子となる、ということは、

この「域」にまで引き上げられるものなのか…と、驚愕します。

 

スゴイことだなと

私的には ただ驚嘆するだけの

ステファノさんの最期です。

 

初代のお弟子さんたちのどなたもが、

ステファノさんのようであったのでしょう。

 

その「域」にまで達した人々であったからこそ

徹底した 主の福音の伝道者たり得たのかもしれません。

「死」の淵にあっていよいよ確信せられたる「喜び」。

 

「未来」がはっきり見える者。

「未来」を「現実」として生きる者。

「現実」の「未来」を「今」生きている者。

かれらは だれよりも強いのだ。

 

そんなこと思いました。

ハレルヤ

 

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解説を見てみます。

 

新実用聖書注解458p

略)ヨナタンも、主の臨在と平安とを信じつつ涙の中にダビデを送り出し、自分は父のいる町へ帰って行った。ダビデと共に行きたい思いに迫られたであろうが、ヨナタンには、ヨナタンの負うべき「十字架」があった(42)

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clay解説全文

ダビデとヨナタンの別離

涙の別れ

翌朝、ヨナタンは打ち合わせておいた場所に出かけ、父サウルが確かに殺意を抱いていることをダビデに伝えます。

 

(1)伝える方法は、かねて取り決めたとおりです。ヨナタンは、矢を子どもの向こうに放っています。それは、サウルがダビデを殺そうとしているという意味で、ダビデにとっては良くない知らせでした。

 

(2)ヨナタンがその場から子どもを立ち去らせると、ダビデは南側の石のそばから姿を現わし、両者は涙ながらに別れのあいさつを交わします。この別離は、ふたりにとって非常に辛いものでした。

 

(3)最後に、ヨナタンはこう語っています。「では、安心して行きなさい。私たちふたりは、『主が、私とあなた、また、私の子孫とあなたの子孫との間の永遠の証人です』と言って、主の御名によって誓ったのです」。

 

ヨナタンは、ダビデを愛する愛のゆえに、自分の王国を犠牲にしたのです


ヨナタンの献身的な愛から、あなたは何を学びますか

 

あなたは、主イエスを愛する愛のゆえに、何を犠牲にしていますか

 

契約の内容

ここで、ダビデとヨナタンの契約の内容について確認しておきましょう。

(1)この契約は、友情契約というものです。

(2)ヨナタンは、決してダビデを裏切らないということを約束します。この約束は、最後まで守られました。

(3)ダビデは、自分が王になっても、ヨナタンの家系を抹殺しないということを約束しました。そしてダビデもまた、最後までこの約束を守ります。
 

私たちは、言葉や約束が軽く扱われる時代に住んでいます

 

そのため、聖書に書かれている約束についても、その重みを理解することができないのです

 

しかし、約束(契約)とは本来非常に重いものです

 

ダビデとヨナタンの契約を通して、神の契約の重みを理解しようではありませんか

 

神がアブラハムと交わした契約(アブラハム契約)、また、主イエスを通して私たちに与えられた契約(新約)は、永遠に破棄されることがありません

 

きょうも、主イエスの御手に守られて、神の国とその義を求めつつこの世に出て行こうではありませんか

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きょうの祈り

イエス・キリストの父なる神さま。あなたの約束は真実であり、永遠に変わることはありませんどうか、きょうも大胆に生きることができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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年間聖書通読

サムエル記第一6~7、箴言18

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2024年5月21日(火)☔24℃

 

とうとう「梅雨入り」のようです。

週間天気予報では終末まで傘マークです。

じとじとジメジメの始まり?

(猫ちゃんにはたまりませんネ…)

 

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今回のclayさんのお勧め。

 

「神の契約の重みを理解しよう」!

ほんと、そうだなと思いました。

 

「言葉や約束が軽く扱われる時代」

これもまた、そうだなと思いました。

 

国と国の約束も簡単に反古にされます。

「法」はいかようにでも解釈され

時の権力者や潮流に都合のよいように扱われていきます。

そのような国も人も信頼することは不可能です。

 

私たちが「聖書の神」を信じられるのは、

「聖書の神」は「約束の神」であるから。

そして、神はその約束を徹底して守られる。

 

変わらない「神のことば」のゆえに

わたし(たち)は安心して世を過ごせます。

 

変わりゆく「世」に

変わらない「真実」が示された。

私(たち)はそれを見続けることができる。

この幸いを イエスさまは届けてくださった。

 

ハレルヤ

尊き主イエス・キリストの御名により

常に喜び絶えず祈り

凡てのこと感謝できますように。

アーメン