サムエル記上20章35~42節
〔新共同訳〕
【ダビデとヨナタン】(4)
35翌朝、取り決めた時刻に、ヨナタンは年若い従者を連れて野に出た。 36「矢を射るから走って行って見つけ出して来い」と言いつけると、従者は駆け出した。ヨナタンは彼を越えるように矢を射た。
37ヨナタンの射た矢の辺りに少年が着くと、ヨナタンは後ろから呼ばわった。「矢はお前のもっと先ではないか。」 38ヨナタンは従者の後ろから、「早くしろ、急げ、立ち止まるな」と声をかけた。従者は矢を拾い上げ、主人のところに戻って来た。
39従者は何も知らなかったが、ダビデとヨナタンはその意味を知っていた。 40ヨナタンは武器を従者に渡すと、「町に持って帰ってくれ」と言った。
41従者が帰って行くと、ダビデは南側から出て来て地にひれ伏し、三度礼をした。彼らは互いに口づけし、共に泣いた。ダビデはいっそう激しく泣いた。
42ヨナタンは言った。「安らかに行ってくれ。わたしとあなたの間にも、わたしの子孫とあなたの子孫の間にも、主がとこしえにおられる、と主の御名によって誓い合ったのだから。」
******************************************
(聖句雑感)
「三度」の「礼」。
(つい、三国志の「三顧の礼」を思い出しますが…。
それは、ともかく……。)
「ヨナタン」という味方を主はたててくださって、「ダビデ」を守られた。一方、ヨナタンは父のサウル王と運命を共にする。
悲しいなぁ、と思う。
実に、悲しい。
聖書の中にはいろんな登場人物の悲喜こもごもがある。
その人生の終わりも良し悪しにつけ劇的な人々もいる。
自らが予想しない終わり方に直面するときでも、その最期の瞬間に「我主に従えり」「主に栄光あれ」と心から叫べる人は幸いではなかろうか。
新約聖書の使徒ペテロさん。
彼は、その最期をイエスさまから預言されていました。
そして、その通りの「死」を遂げました。
壮絶な最後ですが、彼は「成し遂げた」。
使徒たちの最後をみると皆、壮絶。
しょうじきに…、
これで、
「愛」を語り、
「平和」を語り、
「幸せ」を語れるのだろうか…と
思ってしまうときもある、いまだに。
この複雑怪奇な「喜び」、
彼らの持っていたこの「喜び」を
どのように「人」は理解することができよう…?
ふと「ステパノ」が頭をよぎる。
彼の最期の姿はどうであったか…。
その殉教の様子は「使徒言行録7章」に描かれている。
使徒言行録7:54-60(新共同訳)
54人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした。
55ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、56「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。
57人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、58都の外に引きずり出して石を投げ始めた。証人たちは、自分の着ている者をサウロという若者の足もとに置いた。
59人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った。60それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。
8:1サウロは、ステファノの殺害に賛成していた。
~~~~~~~~~~
こにに登場する「サウロ」という若者が、後に異邦人のための大使徒パウロとなります。実に、神の摂理の言い難き「妙」を思います。
マタイ福音書5章にあります。
「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る」
ステパノさんは、「神を見た」。
天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える。
見える「主」に向かって呼びかける。
主イエスよ、わたしの霊をお受けください。
そして、究極の言葉を発する。
主よ、この罪を彼らに負わせないでください。
この一連の流れ、主イエスさまの最期と重なります。
主イエスの弟子となる、ということは、
この「域」にまで引き上げられるものなのか…と、驚愕します。
スゴイことだなと
私的には ただ驚嘆するだけの
ステファノさんの最期です。
初代のお弟子さんたちのどなたもが、
ステファノさんのようであったのでしょう。
その「域」にまで達した人々であったからこそ
徹底した 主の福音の伝道者たり得たのかもしれません。
「死」の淵にあっていよいよ確信せられたる「喜び」。
「未来」がはっきり見える者。
「未来」を「現実」として生きる者。
「現実」の「未来」を「今」生きている者。
かれらは だれよりも強いのだ。
そんなこと思いました。
ハレルヤ
~~~~~~~~~~~~~~
解説を見てみます。
■新実用聖書注解458p
略)ヨナタンも、主の臨在と平安とを信じつつ涙の中にダビデを送り出し、自分は父のいる町へ帰って行った。ダビデと共に行きたい思いに迫られたであろうが、ヨナタンには、ヨナタンの負うべき「十字架」があった(42)。
*-*-*-*-*--*-*-*-*-*-*-*-*
■clay解説全文
ダビデとヨナタンの別離
涙の別れ
翌朝、ヨナタンは打ち合わせておいた場所に出かけ、父サウルが確かに殺意を抱いていることをダビデに伝えます。
(1)伝える方法は、かねて取り決めたとおりです。ヨナタンは、矢を子どもの向こうに放っています。それは、サウルがダビデを殺そうとしているという意味で、ダビデにとっては良くない知らせでした。
(2)ヨナタンがその場から子どもを立ち去らせると、ダビデは南側の石のそばから姿を現わし、両者は涙ながらに別れのあいさつを交わします。この別離は、ふたりにとって非常に辛いものでした。
(3)最後に、ヨナタンはこう語っています。「では、安心して行きなさい。私たちふたりは、『主が、私とあなた、また、私の子孫とあなたの子孫との間の永遠の証人です』と言って、主の御名によって誓ったのです」。
ヨナタンは、ダビデを愛する愛のゆえに、自分の王国を犠牲にしたのです。
ヨナタンの献身的な愛から、あなたは何を学びますか。
あなたは、主イエスを愛する愛のゆえに、何を犠牲にしていますか。
契約の内容
ここで、ダビデとヨナタンの契約の内容について確認しておきましょう。
(1)この契約は、友情契約というものです。
(2)ヨナタンは、決してダビデを裏切らないということを約束します。この約束は、最後まで守られました。
(3)ダビデは、自分が王になっても、ヨナタンの家系を抹殺しないということを約束しました。そしてダビデもまた、最後までこの約束を守ります。
私たちは、言葉や約束が軽く扱われる時代に住んでいます。
そのため、聖書に書かれている約束についても、その重みを理解することができないのです。
しかし、約束(契約)とは本来非常に重いものです。
ダビデとヨナタンの契約を通して、神の契約の重みを理解しようではありませんか。
神がアブラハムと交わした契約(アブラハム契約)、また、主イエスを通して私たちに与えられた契約(新約)は、永遠に破棄されることがありません。
きょうも、主イエスの御手に守られて、神の国とその義を求めつつこの世に出て行こうではありませんか。
*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*
きょうの祈り
イエス・キリストの父なる神さま。あなたの約束は真実であり、永遠に変わることはありません。どうか、きょうも大胆に生きることができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*
年間聖書通読
サムエル記第一6~7、箴言18
*************************************
2024年5月21日(火)☔24℃
とうとう「梅雨入り」のようです。
週間天気予報では終末まで傘マークです。
じとじとジメジメの始まり?
(猫ちゃんにはたまりませんネ…)
~~~~~~~~~~~~~~
今回のclayさんのお勧め。
「神の契約の重みを理解しよう」!
ほんと、そうだなと思いました。
「言葉や約束が軽く扱われる時代」
これもまた、そうだなと思いました。
国と国の約束も簡単に反古にされます。
「法」はいかようにでも解釈され
時の権力者や潮流に都合のよいように扱われていきます。
そのような国も人も信頼することは不可能です。
私たちが「聖書の神」を信じられるのは、
「聖書の神」は「約束の神」であるから。
そして、神はその約束を徹底して守られる。
変わらない「神のことば」のゆえに
わたし(たち)は安心して世を過ごせます。
変わりゆく「世」に
変わらない「真実」が示された。
私(たち)はそれを見続けることができる。
この幸いを イエスさまは届けてくださった。
ハレルヤ
尊き主イエス・キリストの御名により
常に喜び絶えず祈り
凡てのこと感謝できますように。
アーメン