サム上16章②6-10:「神は私たちの心がどうなっているか、常に感心を払っておられます」 | 聖書と私とコーヒーと+ワン

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~「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ14:6)~

この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を
あなたがたに与えることができます。(Ⅱテモテ3:15)

 

サムエル記上16章6~10節

〔新共同訳〕

ダビデ、油を注がれる】(2)

 6彼らがやって来ると、サムエルはエリアブに目を留め、彼こそ主の前に油を注がれる者だ、と思った。 

 

7しかし、主はサムエルに言われた。

容姿や背の高さに目を向けるなわたしは彼を退ける人間が見るようには見ない人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」 

 

8エッサイはアビナダブを呼び、サムエルの前を通らせた。サムエルは言った。「この者をも主はお選びにならない。」 

 

9エッサイは次に、シャンマを通らせた。サムエルは言った。「この者をも主はお選びにならない。」 

 

10エッサイは七人の息子にサムエルの前を通らせたが、サムエルは彼に言った。「主はこれらの者をお選びにならない。」

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(聖句雑感)

人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」

容姿や背の高さに目を向けるな

 

見目麗しい人に心奪われるのは人の常。

”人格”すらもまるでそのごとくに思えてしまう。

その人の頭の中や心の中まで見ることはできないのに、見事に錯覚してしまうのです。簡単に騙されてしまう。

 

それでも、「美しさ」はほんとうに良きものだと思う。

 

多分「心」の美しさは外見にも現れるのだと思う。

姿形というよりその「品性」。

 

それでもなお、「人」には「人」を見極めることはできない。

そして、「人」の心も変わっていく。

「初め」の心を忘れていく。

 

「サウロ王」然り。

 

ふと御言葉を思い出す。

 

ヘブル4:13(新共同訳)

更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらで出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。

(アーメン)

 

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解説を見てみます。

 

BIBLEnavi260p

 サウルは背が高くハンサムだった。彼は見栄えの良い人物であった。サムエルはサウルに似た者をイスラエルの次王として探していたのかもしれない。しかし神は外見だけで人を判断することに対し彼に警告された。人を見た目で判断すれば、現時点で社会が称賛する特定の肉体的性質が欠けているが優れた人物を身落とすおそれがある。外見では本当はどんな人間か、その人物の本当の価値を明らかにすることはできない

 幸い、神は外見ではなく信仰と性格によって判断されるそして、人の内側を見抜くことができるのは神だけなので、神だけが人を正しく判断できる。ほとんどの人が毎週何時間もかけて身なりを整えようとするが、それよりも内的な人格を成長させるために、もっと努力すべきである。あなたの顔は誰でも見ることができるが、あなたの心が本当はどんな姿かを知っているのはあなたと神だけである

 

あなたは心の態度を良くするために、どのようなことをしているだろうか

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clay解説全文

エッサイの息子たち

サムエルの誤った評価

いけにえをささげる儀式は、その後に開かれる宴会とセットになっていました。その宴席に、エッサイの息子たちが招かれました。エッサイには8人の息子たちとふたりの娘たちがいました


(1)最初に来たのが、長男のエリアブです。サムエルは彼を見て、「確かに、主の前で油をそそがれる者だ」と思いました。しかし、その評価は間違っていました。

(2)エリアブは、サウル王のように背が高くて、容貌のすぐれた者でした。つまり、サムエルは民がサウルを王に選んだときの基準をここで採用しているのです。不思議なことですが、サムエルほどの人物でも、外見にとらわれるという弱点を持っていたのです

(3)そのとき主はサムエルに、あの有名なことばを語られました。彼の容貌や、背の高さを見てはならない。‥‥人はうわべを見るが、主は心を見る

 

この原則は、今も生きています

神は私たちの心がどうなっているかに、常に関心を払っておられます

 

退けられた7人の息子

次に出てきたのが、次男アビナダブです。彼もまた、選びの器ではありませんでした。続いて、三男シャマ以下、4人の息子たちが次々に登場しますが、いずれも主が選んだ人物ではありませんでした。歴代誌第一2:14~15には、エッサイの息子たちの名が記されています。四男がネタヌエル、五男がラダイ、六男がオツェム、七男がダビデとなっています。ダビデは八番目ですから、誰かひとり抜けていることになります。恐らく、その息子は早死にしたので、そのリストからははずされているのでしょう。


神の選びの不思議さに注目しましょう

 

神は父エッサイからはほとんど無視されていた末の息子を選んでおられました

 

取るに足りない者に恵みを注ぎ、ご自身の子としてくださるのが神の方法です

 

パウロはコリントのクリスチャンたちに、

しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです」(Ⅰコリント1:27)と書き送っています。

 

神の恵みを受けた者として、きょうも神の栄光を輝かす歩みをしようではありませんか

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きょうの祈り

全知全能の神よ。心をご覧になるあなたの前で、何一つ隠しおおせるものはありませんどうか、良心に恥じない歩みをさせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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年間聖書通読

ヨシュア記11~12、ルカの福音書6

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2024年4月20日(土)☀26℃

 

とても良い天気です。

過ごしやすく、吹く風も心地よいです。

外に出ると汗ばむかもしれませんね。

 

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「心を見る」神さま。

そして

「神の選びの不思議さ」。

 

今日もお勧め頂きました。

感謝です。

 

先日、

このブログにも書いてしまいましたが、

「ゆるす」「ゆるさない」という関係。

う~~ん…となっていたら、ふと、

「ハンナをみよ」との思い。

 

「ハンナ」のあの苦しみ。

いたたまれない思い。

傷をえぐられる思い。

数々の嫌がらせ、そして嘲笑。

「ハンナ」を「敵」と見る者によるいじめ。

 

「ハンナ」の態度はどうであったか。

ただじっと耐えていたように思う。

相手に抵抗するでもなく、仕返しするでもなく。

忍耐の限りを尽くして耐え抜いていたように思う。

そして、彼女のいきついたところは、

「神」の御前で、「祈り」によって

その思いのたけを申し上げるという方法だった。

 

「復讐するは我にあり」

幾度この御言葉に触れてきただろうか。

 

そして、

「人間」はだれも

「神」の御前に正しい者はいない、ということ。

皆、罪人である、ということ。

「罪人」どうしが責め合って?何になるの?

という思いになってきました。

 

すると、まず

「謝りなさい」という思いがきました。

「えっ!?」と思った。

 

自分が先に「謝る」…。

「そうかぁ」と一瞬、荷が軽くなった。

しかし、またすぐ、

あぁ、なんたる課題だ、と思えてくる。

 

ここまでこじれては

相手方の方が受け入れるかどうか。

ただ「恥」だけが残るのではないか。

 

「心」から謝罪できるのか?

 

「謝罪」という選択。

 

正直、相手を傷つけたという

その出来事自体を

私はすっかり忘れていた。

覚えていなかったのだ。

自分がそんなことをしたのか、と。

 

晴天の霹靂とはこのことのようだ。

 

もしかすると、相手方も、

いついかなることで私を傷つけたか

もう忘れているのかもしれないな。

 

傷つける方はなんと楽で、

傷つけられた方はなんと苦い。

 

かなりの動揺を覚えたものの、

ある意味、先日の「電話」には

感謝した方がよさそうです。

 

わたしには赦す道が開かれている。

相手方の私への数々の無礼と仕打ち

(長年ひきずっている傷)を、

わたしは、わたしが受けたものを

ゆるすことができる。

 

主イエスさまの御名によって

ゆるします、と告白することができる。

感謝です。

 

何も相手からの謝罪を求めることもない。

 

他方、

私が相手を傷つけたとする言動、

たとえ、

相手からゆるされていなくても、

相手が傷ついたままであっても、

今、現在、すでに

私は、イエスさまの権威によって

赦されているのだと信じられます。

感謝です。

 

されど、なにゆえ、

私ばかりが「謝罪」しなけれならないのだ、

という意地が消えたりうまれたりするも、

 

願わくは、

相手方のためにも祈り、

折あらば、相手方に

その時の私の発言や言動に対する

「謝罪」ができるようにと願う。

 

「ハンナを見よ」

 

旧約聖書の人物たちが語りかけてくる。

これほどまでに

「聖書」に記された人物の在り方が

心に迫ってくることはありませんでした。

 

そういう意味でも

「clay」さんによって

細かに聖書に触れていく機会が与えられ、

聖書の登場人物に生々しいほどに

教えらえれ、元気づけられるという

経験をすることができました。

 

人生の助けとなる

様々な「人物」たちが

「聖書」の中で息づいているのですね。

なんという感謝なことでしょうか。

 

「聖書」を読み続け、

「聖書」に触れつづけ、

そんな先輩たちの姿に教えられましたら

幸いです。

 

たとえ「人」からの「ゆるし」を得られなくても、「神」はすでに「私(たち)」を赦してくださっていることを覚えて感謝いたします。 

 

「私(たち)」は赦されている。

神さまからの「赦し」を受け取ります。

「私(たち)」は赦されている!

主イエスさまの御名によって感謝いたします。

ハレルヤ アーメン