サム上15章⑥「サウルを反面教師として教訓を学びましょう」…サウルの神に対する姿勢が変わった故に | 聖書と私とコーヒーと+ワン

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~「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ14:6)~

この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を
あなたがたに与えることができます。(Ⅱテモテ3:15)

 

サムエル記上15章32~35節

〔新共同訳〕

アマレク人との戦い】(6)

32サムエルは命じた。

「アマレクの王アガグを、わたしのもとに連れて来なさい。」アガグは、喜んで彼のもとに出て来た。これで死の苦しみは免れる、と思ったからである。 

 

33しかし、サムエルは言った。

お前の剣は女たちから子供を奪ったそのようにお前の母も子を奪われた女の一人となる。」こうしてサムエルは、ギルガルで主の御前にアガグを切り殺した

 

34サムエルはラマに行き、サウルはギブアの自分の家に向かった。 

 

35サムエルは死ぬ日まで、再びサウルに会おうとせず、サウルのことを嘆いた

 

主はサウルを、イスラエルの上に王として立てたことを悔いられた

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(聖句雑感)

「主はサウルを

イスラエルの王として立てたことを悔いられた」

 

ふと思う。

「神さま」でも失敗するのかな?

 

「待て待て」…

先に読んだBIBLEnaviさんの解説が

頭に入ってないようでアアリマス…。

 

創世記6:5-7(新共同訳)

5主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、6地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。7主は言われた。「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も、わたしはこれらを造ったことを後悔する。」

「神がこう言われたことは悲しみの表現であり、間違いを認められたわけではない」との説明でした。

 

神が「アダム」を造られたとき、

地にお造りになったすべてを御覧になって、

「極めてよかった」と満足された。

祝福された。

 

神さまは「地球」を愛された。

「地球」の管理者として「人」を造られた。

 

大自然の営みをとらえた映像は

ときにわたし(たち)に創造主への畏怖の念を呼び覚ます。

 

「地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた」神さま。

 

 

それにしても、「アマレクの王アガグ」。

自身はさんざん他者を傷つけておいて、

自分の「死」に対しては潔くなかったのですね。

「死の苦しみは免れると思った」とあります。

傍若無人な人物を象徴しているかのよう。

 

「アガグ」とは「狂暴」という意味。

 

サウルの失敗をサムエルが補った。

サムエルが仕上げた。…。

 

サムエルは死ぬまでサウルのことを嘆いた、

とあります。気が重いお話しです。

 

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解説を見てみます。

 

■clay解説全文

聖絶の成就

寸断されたアガグ

サウルがそのままにしていた聖絶の命令を、サムエルが実行します。それは、アマレク人の王アガグの寸断という形で行なわれました。

 

(1)アガグが連れて来られました。新改訳は、「アガグはいやいやながら彼のもとに行き」と訳しています。そして欄外に、「喜んで彼のもとに行った」という別訳も付けています。文脈から判断すると、「喜んで」と訳したほうがいいと思われます。すでに戦いは終わり、サウルにはさらなる死刑を執行する気配がなかったからです。アガグは当面は命が助かったと思い、喜んで来たのでしょう

 

(2)しかし、サムエルはアガグの罪を見逃すことはありませんでした。アガグは多くのユダヤ人の女たちから子を奪ってきました。今やアガグの母が、子を失う番になるのです。

 

(3)アガグはサムエルによって、ずたずたに切り裂かれましたこれによって、主が命じたアマレク人の聖絶が成就したのです


アガグは、甘い見通しをしていたのですが、最後は、自分の蒔いた種の刈り取りをさせられました。ガラテヤ人への手紙6:7にあるとおりです。「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」。

悲しむサムエル

その後、サムエルはラマに帰り、サウルはギブアに帰ります。これがふたりの地上での最後の会見となりました。サウルに会わないからと言って、サムエルが無関心でいたわけではありません。彼はサウルのことで、日夜心を痛めていたのです。


かくして、サウルの治世は実質的な終わりを迎えました。最初は良いスタートを切ったサウルでしたが、最後は失敗で終わりました

 

神が心を変えたり、悔やまれたりすることはありません

 

サウルの神に対する姿勢が変わったので、神はサウルに委ねていた計画を変更されたのです

 

サウルを反面教師として教訓を学びましょう

 

「私の人生に用意された神の計画がすべて成就しますように」と祈りましょう

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きょうの祈り

天の父よ。サウルの失敗から私を守ってください私の人生に用意されたあなたの計画がすべて成就しますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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年間聖書通読

ヨシュア記7~8、詩篇27~28

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2024年4月17日(水)☀28℃多湿

 

「反面教師」。

嫌デスネ。

そんなものにはなりたくないですが。

 

今日、とある電話で、

昔の「傷」がえぐられ、今も続いて根をはっている「苦しみ」と「痛み」に塩を塗られるような思いをしてしまいました。

 

いかんともしがたく、

自分で「処理」できないのです。

 

「赦し」「ゆるされる」ことが

こんなに難しいことだとは思いませんでした。

生涯が尽きようとする時間、耐え難き難問です。

 

わたしを恨み憎んでいる者の存在。

かれらは「私」から受けた傷をもって「ゆるす」ことはない。

徹底的な排除へと向かう。

 

では、私の受けた「傷」はどうなるのか…。

彼らと触れなければ、「傷」口は広がらない。

しかし、「傷」はなくなっていない。

 

「傷」を完治させるためにどうすればいいのだ。

相手側の恨みつらみ怨念をどうすればいいのだ。

このやりとりは互いに一歩もひかない。

 

ふと、ヤコブとエサウを思う。

彼らの関係を思う。

 

エサウはヤコブを出迎えたが、

ヤコブは最後まで警戒していた。

 

傷つけた者の宿命だろうか。

 

知らずしてどれだけの人を傷つけてきたのだろうか。

どれだけの「恨み」をかってきたのだろうか。

こんな人生であっても少し恐ろしくなる。

 

「自己実現」という妄想にひた走り、

手にしたものは、こういうものだということだ。

「現実逃避」という幻想の果て。

 

時に、神さまの「ことば」も

自分の都合のよいように利用していたのかもしれませんネ。

(振り返れば失敗ばかりで悔やまれます。

時間はとりもどせません。)

 

神さま第一で

神さまの御言葉に従順に生きて来られたら

これを避けられたのだろうか。

 

とり戻せない「失敗」の数々。

 

(23歳で洗礼を受けたけど、

それからの人生の方が波乱万丈だ…💦)

 

「人を恐れる」ことから「失敗」は始まる。

逆に、人を軽んじすぎるのも問題がある。

 

そういうことだ。

 

人生の「清算」をしようではないか。

キツくてしようがないが、

どう乗り越えましょうか…。

 

主に願う。

 

ハレルヤ

 

常に喜び絶えず祈り

凡てのこと感謝せよ。

アーメン ハレルヤ

 

主イエスの御名をたたえます。