「民は指導者としての神の代わりに法律、軍隊、人間による君主制を欲しがった」…真の指導者は誰か | 聖書と私とコーヒーと+ワン

聖書と私とコーヒーと+ワン

~「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ14:6)~

この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を
あなたがたに与えることができます。(Ⅱテモテ3:15)

 

サムエル記上8章1~9節

〔新共同訳〕

民、王を求める】(1)

1サムエルは年老い、イスラエルのために裁きを行う者として息子たちを任命した。 

 

2長男の名はヨエル、次男の名はアビヤといい、この二人はベエル・シェバで裁きを行った。 

 

3しかし、この息子たちは父の道を歩まず、不正な利益を求め、賄賂を取って裁きを曲げた。 

 

4イスラエルの長老は全員集まり、ラマのサムエルのもとに来て、 5彼に申し入れた。

あなたは既に年を取られ、息子たちはあなたの道を歩んでいません今こそほかのすべての国々のように我々のために裁きを行う王を立ててください。」 

 

6裁きを行う王を与えよとの彼らの言い分は、サムエルの目には悪と映ったそこでサムエルは主に祈った。 

 

7主はサムエルに言われた。

「民があなたに言うままに、彼らの声に従うがよい。彼らが退けたのはあなたではない彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ。 

 

8彼らをエジプトから導き上った日から今日に至るまで、彼らのすることといえば、わたしを捨てて他の神々に仕えることだったあなたに対しても同じことをしているのだ。 

 

9今は彼らの声に従いなさいただし、彼らにはっきり警告し、彼らの上に君臨する王の権能を教えておきなさい。」

******************************************

(聖句雑感)

主のことば。

「彼らを

エジプトから導き上った日から

今日に至るまで

彼らのすることといえば

わたしを捨てて

他の神々に仕えることだった。」

 

「うわぁ、こわい」と

思ってしまいました。

 

昨日、clayさんお勧めの通読箇所

民数記11章12章読みました。

「うずら」事件がありました。

こわかったです。そして惨めに思いました。

自分の姿に置き換えます。

 

「主」の逆鱗に触れる。

されど「主」は要求を聞かれる。

そして、待っているのは「死」。

何だろう、コレ?って 

私的にはなかなか理解できません。

 

この箇所を読むと、悪いのはサムエルの息子たちで、民の要求は自然で当然のようにも思えます。

 

神と民との間にたつべき者らの裏切りと不正。

彼らによって「神」とさばき人への信頼が損なわれていく、それは当然の成り行きにも思えます。

 

民は要求した。

「今こそ、他のすべての国々のように、

我々のためにさばきを行う王をたててください」

 

隣の芝生が青く見える、とはよく聞きますが、このトラブルに乗じて、かねてから腹にあった民の本音が引き出されてしまったのかもしれませんね。

 

民はまず、現在行われている「不正」を正すことを求めるべきだったのでしょうか?相手は大士師サムエルの息子たちです。また、サムエルさんも、このような事態になるまでご自身の息子たちの行いを改めさせることはできなかったのでしょうか。

 

先の祭司エリさんご一家を思い出します。

 

今日の箇所では、

主は、民の要望を聞け、とサムエルさんに伝えます。

サムエルさんは、民の言い分に不快感を示しています。

「自分が退けられた」という感覚のようです。

(日本の国会でいう不信任案の決議みたいなものですね?)

 

主が仰るには、

民はサムエルさんではなく、

主御自身を退けたとのことです。

ここ私的に難しいです。

 

申命記17章には「王に関する規定」があります。

「主」に先回りされているイスラエルの人々です。

 

「王」を立てる、という

「人」が最終的にたどり着く統治システム。

「王」になる、という「人」の究極の野望。

 

「人」が潜在的に持っている「罪」、

「自己礼賛」と「他者の偶像化」は

「神」を拝する行為の対極にあるもの。

 

その象徴が「王」なのでしょうか?

 

「人間」の基準で物事を決めていくシステム。

その「王」が創造主に従順である方であれば

民にとっては幸いなれど、その逆となれば無惨です。

 

主はおっしゃる。

「彼らの上に君臨する王の権能を教えておきなさい」

 

「王の権能」。

 

飢え渇き求めている時は、

求めている対象が素晴らしく思えて

冷静に見つめられないものなのだと思います。

良い面しか想像できない。

 

強きリーダーシップ。

しかし それが苦しみの原因にもなる時がある。

ふと、織田信長さん思い出します。

彼は家臣には恐れられたけど、民にはどうだったのだろう?


長くなりました。

とにもかくにも、

この箇所は私的に未だに理解に困る所です。

神の御心と人の思いの溝を感じてしまいます。

 

主イエスさまを形容する言葉に「王の王」とあります。

神さまは、この地上に住む人へ、

長い年月という歴史をかけて

人がなすあらゆる統治システムをゆるし

なおかつその上で

それらに勝って

主イエスの「統治」こそが

求むべきものなのだと教えていらっしゃる、

ということなのでしょうか。

 

そんなこと思いました。

 

~~~~~~~~~~~~~~

解説を見てみます。

長いですが引用します。

 

新実用聖書注解441-442p

サムエルは、エリの住まいに同居するようになった幼年時代からずっと、エリの息子たちの悪行に満ちた日常生活を見てきており、彼らを言わば反面教師として、自戒してきたはずであった。

 

時には、師であるエリに対しても、その訓練のルーズな様子に はがゆり思いを抱いたことであろう。

しかも彼は、エリ家に対する神のさばきの預言をはっきりと語り聞かされていた(3章)。

 

そのサムエルが、自分自身の息子たちについては、エリと全く同じ過ちを繰り返してしまった。子供の養育というものが、どんなに難しいものであるかを思い知らされる。

 

 彼は晩年になって、息子たちを<さばきつかさ>(1)に任じたが、これは明らかにミス・キャストであった。

 

裁判をあずかる者に絶対必要な条件は、公正と清廉な心だからである

 

彼らは、サムエル(参照12:3)とは似ても似つかぬ子供たちであり、金銭を好み、わいろを取り、わいろを持って来た側に有利な判決を行っていた。

 

民は、サムエルの息子たちの堕落に触発された形で、士師制から王制への変更を求めた

 

サムエルはこの申し出を聞いて悲しんだが、自分のしつけの失敗も絡んでいたため、強い態度に出ることが出来なかった。

 

この要求の背後に 他国の模倣、そして神ご自身への背反があることを悟った彼は、王を求める道の危険について懇ろに諭したが、民の耳には入らなかった。

 

これまでのイスラエルの不安定は、実は不信仰がその原因であったが、民は士師制に問題があると考えた

 

特に、サムエルの老齢化、息子たちの不信実を見て、他国のように王制を取り入れたいと申し出た(4-5)

 

<そのことばはサムエルの気に入らなかった>(6)。直訳すれば「サムエルの目に悪であった」となる(参照新共同訳)。

 

イスラエルは選民であり、他国と違うところにこそその特長と栄誉があるのに、彼らはあえて異教の組を模倣しようとしているのである(参照ロマ12:2)

 

サムエル自身、これまで忠実に、誠心誠意 神のため民のために生きてきたのに、民は彼とその家族を退けようとしていた。サムエルの心は悲しみに打ちひしがれたに違いない。しかし、彼はいつものように、その事態をそのまま主のもとに携えて行き、祈った(6)

 

ところが予想に反して、主は、<民の声を聞き入れよ>(7)と答えられた。放蕩息子に財産を分けて、その思うままにさせた父親のように(ルカ15:11以下)

 

主は時に民の意をそのまま受け入れて、そのわがままな道を行くに任せられることがある

 

実は、それがそのまま神のさばきなのである(7.参照ロマ1:24,26,28)

 

主はサムエルに、民が捨てようとしているのは士師サムエルではなくイスラエルの神ご自身であり、これは出エジプトの時以来一貫して示してきた民の態度であると語られた(8)。

 

そして、王制に伴う<王の権利>(9)をあらかじめ説明して警告するよう命じられた。

BIBLEnavi249p

イスラエルが王を望んだのには、いくつかの理由があった

 

 サムエルの息子たちはイスラエルの指導者としてふさわしくなかった。イスラエルの12部族には、それぞれに指導者がおり領土があったため、協力して働くにあたって常に問題を抱えていた

 

1人の王が部族をまとめ、1つの国、1つの軍隊とすることが望まれていた

 

民は周辺諸国のようになることを望んだこれはまさに神が望まれなかったことだ

 

1人の王を立てることで、神が真の指導者であることを簡単に忘れてしまうためである

 

イスラエルが王を求めることは間違っていない。神はその可能性について、申命17:14-20で述べられた。

 

しかし現実には、民は指導者としての神の代わりに法律、軍隊、人間による君主制を欲しがった

 

敵に囲まれたカナンの地で自分たちを繁栄させることができるのは神の力だけであったにもかかわらず、彼らは国を人間の力で運営しようとしたのだ。

 

民は新たな政府体制が国に変革をもたらすと考え、王が欲しいと騒ぎ立てた

 

しかし彼らの根本にある問題は神への不従順であったため、新政権下でもその他の問題はそのまま残った。

 

彼らに必要だったのは規則の統一ではなく信仰の一致であった。イスラエル人が神の指導権に従っていれば、想像を超えて繁栄することができただろう(申命28:1)。

 

私たちが家族や個人の人生において神の導きを願いながら、この世の基準や価値に従って生活し続けるなら、私たちの従順は弱い

 

神への信仰は、人生の具体的側面すべてに影響しなければならない

*--**-**-*-*-*-*-*-*-*

clay解説全文

王を求める人々

サムエルの息子たちの堕落

サムエルは当時65~70歳になっていました。

老齢者が後進に道を譲るのは悪いことではありません

 

彼はふたりの息子たちを士師に任命し、ベエル・シェバに派遣しました

 

南部地方は息子たちに任せ、自分は北部地方だけに責任を持てばよい体制を作ったのです。

 

(1)長男の名はヨエル(「主は神である」という意味)、次男の名はアビヤ(「主は私の父」という意味)でした。

 

(2)彼らは素晴らしい名を持っていましたが、その行動はその名に恥じるようなものでした。父サムエルとは異なり、わいろを取って裁きを曲げていたのです

 

(3)これは、モーセの律法違反でした(出エジプト記23:8参照)。


サムエルもまた彼の師であったエリと同じ過ちを犯しています息子の養育に失敗したのです

 

王を求める人々

そこで、イスラエル12部族の長老たちがサムエルのもとに集まり、王を与えて欲しいと要求します。その理由が三つありました。

 

(1)サムエルは老齢になり、その息子たちは道を外しているこれでは、信頼できる指導者がいなくなる

 

(2)他国の人々はみな、王を持っている。自分たちも他国の人々のようになりたい。

 

(3)自分たちには、軍事的リーダーが必要である


サムエルはこれを不愉快に感じました。そして主に祈ると、答がありました。その内容は、次の四つに要約することができます。

 

(1)民の言うとおりにせよ

(2)彼らの要求は、サムエルを退けたというよりは、神ご自身を退けたというものである。

(3)これは新しいことではなく、この民の歴史上いつも起こってきたことである。

(4)民を治める王の権利を民に知らせよ


当時、イスラエルの政治形態は神政政治でした

 

神が王で、神は預言者や士師を通して民に語りかけていたのです

 

しかし民は、それよりも人間の王に信頼を置く政治形態を求めました

 

民の罪とは、間違ったところに信頼を置いたことにあります

 

あなたは神を信頼して歩んでいますか

 

あなたの日々の判断や決断は、神に栄光を帰すものとなっていますか

 

イスラエルの民の失敗から教訓を学びましょう

*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*

きょうの祈り

イスラエルの神よ。あなたに信頼しないことが問題の根本原因ですどうか、あなただけをあがめて歩ませてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*

年間聖書通読

民数記13~14、マタイの福音書10

****************************************

2024年3月5日(火)☀24℃

 

変わりやすいお天気のようです。

晴れたリ曇ったり雨が降ってくれたり。

ダムの貯水率43%。70%をこえるには

あとどのくらいの雨量が必要だろうか?

 

雨よ降れ降れ☔よ降れ!

 

~~~~~~~~~~~~

今日の箇所は

思うべきところ、

一杯あるような気がしました。

 

まず、サムエルさんの子育て失敗。

皮肉なものですね。

サムエルさんまでも失敗するなんて。

なぜだろう?

 

「権力」というか、それに近い場所に

産まれた時から置かれている人たちは

よほどの識別力を養い育ててもらわない限り、

それらが自分にあって当たり前、

その環境が自己アイデンティティとなってしまうのだろう。

かしずかれるのが当然、もらって当たり前、

自分のいう事は聞かれて当たり前?

「頂点」に近い所に置かれているのだから、

何をやってもいいように錯覚してしまうのかもしれませんね。

ある意味「不幸」かもしれません。

(とある最近の世紀の結婚劇を思い出します…)

 

ちょっと語弊があるかもしれませんが、

韓流の歴史ドラマを観ていますと

身分制度による人間ドラマの悲劇と

その理不尽さにむしょうに腹が立ったりします。

その時代を制した「覇権者」の都合のよい社会が形成されます。

「身分制」はその最たるものなのだと私的には思えます。

民族の入り混じる大陸などの他民族国家では多分、それによって他部族を徹底して押さえ込んだのかもしれませんね。

 

(ソレました)

 

それにしても、なぜ?

大士師サムエルさん…。

息子さんたちに罪を犯させてしまいました。

 

親と子は こうも違うものなのだろうか。

優れた親のもとに、優れた子ができる、

というものではないのですよね。

とても残念です。

 

聖書に記されたユダ国の王の歴史、

善き王のあとに必ずしも善き王が出るとは限らず、

悪い王のあとに善き王が登場したりもします。

これって、何を意味しているのでしょう。

 

日本でいえば、

「天皇」もそうなのでしょう。

大河ドラマでは平安朝が取り上げられてます。

「天皇」の歴史もとても人間臭いですよね。

明治以降、ちょっと「神格化」されてしまったような気もしますが、「昭和天皇」はそれでも 戦前戦中戦後において「天皇」の威厳を保っていらっしゃったと私的には思えてしまいます。

(ソレました)

 

この場合、

イスラエルの民はどうすればよかったのでしょう。

「王」の存在を喉から手がでるほど欲した。

それは、士師や祭司らへの不信も助長してしまった。

すべての要因がその方向へと理由付けされていく。

この流れは止められない感じです。

 

自分たちが「特別な民」であることも忘れている。

自分たち以外の諸国の民が素晴らしく見える。

 

そうですよね。

「カイン」は都市をつくりあげたんですものね。

「神」へ反逆した者らの方が至って優れて見える。

とても優秀できらびやかに見える。

真の「神」を知らない者らは「人間」を謳歌する。

 

そうね。

「人間」っていいいなと思える学びの時期もありましたね。

 

神さまがお造りになって

「よし」と言われて満足された

そんな「人間」に戻れたら 幸い。

 

今日の思考もまとまりませんが、

 

物語はまだまだ続きますゆえ

学べつづけられましたら幸い。

 

神さまを求める心が失われませんように。

 

ハレルヤ

主イエスさまの御名によりて

今日の御言葉に感謝します。

 

常に喜び絶えず祈り

凡てのこと感謝できますように。

アーメン