「彼らは、本来いるべき場所へ戻ったのです」…「信仰が復活する瞬間」 | 聖書と私とコーヒーと+ワン

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~「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ14:6)~

この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を
あなたがたに与えることができます。(Ⅱテモテ3:15)

 

マルコ福音書16章12~13節

(ルカ24:13-35)

〔新共同訳〕

二人の弟子に現れる

12その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿で御自身を現された。 

 

13この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった

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(聖句雑感)

エマオ途中の二人の弟子に主が顕現したシーンを詳しく記述しているのはルカ福音書のみだと思っていましたが、マルコ福音書でも簡単に記述されていたんですね。ここもまた素通りでした。

 

「イエスが別の姿で」現れた、とあります。

「別の姿」?

 

エマオ下りの弟子二人は、道行を急ぐイエスさまを強いてとどめ、ともに食卓につきました。イエスさまがパンを裂いたとき、彼らはようやく、この方がイエスさまだと気づくのです。気づいたときにはイエスさまのお姿はそこにはありませんでした。

なんとも不思議なお話しです。

 

「別の姿」のイエスさま。

復活後のイエスさまは、生前のイエスさまとは違うお姿でお弟子さんたちの前に現れたのですね。一体どんなお姿だったのだろうと、私の乏しい想像力では全く思い浮かべることができません。

 

多くのお弟子さんたちは、マグダラのマリアさんの証言も、エマオから戻った二人のお弟子さんの証言も信じられなかったのですネ。

 

鞭打ち後に十字架をかついでゴルゴダに向かうイエスさまのお姿、そして手足に釘を打たれ、十字架上でとどめとばかりに脇腹を刺されたイエスさまを知れば、その最期の肉体の壮絶さを知れば、生き返るなんてこと到底信じられなかったことなのでしょう。

 

だからこそ、「復活」のイエスさまに出会ったときのお弟子さんたちの驚きと喜びはいかほどか。人生180度変わりますよネ。

 

ハレルヤ

 

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解説を見てみます。

 

新実用聖書注解1391-1392p

9節以降を1つのまとまりとして見る時、「信仰」「不信仰」のテーマが繰り返される(11,13,14,16,17)

 

不信仰な弟子たちへの叱責は、4:40,9:19にもあるが、読者への警告と信仰への招きである。

 

16:9-20は、他の福音書や使徒の働きの記事に依拠し、付加された箇所であるが本書の本文の主張と合致している

 

すなわち、一貫して、不信仰を警戒し、また信じる者に、主は臨在と偉大なみわざをもって応えられることを約束している

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clay解説全文

二人の証人

田舎への道

きょうの箇所では、エルサレムから田舎のほうに歩いていた二人の弟子の話が出てきます。より詳細な記録が、ルカの福音書24:13~32に出ていますので、それを参考にしながら内容を確認してみましょう。

 

この二人の弟子は、無名でした。彼らは、エマオという村に急いでいました。なぜそこに向かって歩いていたのかはわかりませんが、イエスが死んだので希望をなくしたか、逮捕される危険を感じたか、どちらかでしょう。その両方かもしれません。

 

(1)彼らの霊的な目は閉ざされていました。そのため、イエスがともに歩んでおられたのに、彼らにはそれがイエスだということがわかりませんでした。

 

(2)彼らの信仰は、過去形の信仰になっていました。彼らは、「私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました」と過去形で、自らの信仰を語っています。

 

(3)彼らの問題点は、十字架の意味を理解していなかったという点にあります


あなたの信仰は、過去形になっていませんか

 

多くの人が、「若いころは、ああだった、こうだった」と証をします

 

しかし、信仰生活では「今」が大切です

 

かつて生きておられたイエスは、今も生きておられます

 

自らの霊の目が開かれ、日々キリストの命に生かされることを願い求めましょう

 

エルサレムへの道

二人の弟子の信仰が復活する瞬間が来ました

 

イエスがパンを裂かれた時、彼らの霊の目が開かれました

 

彼らはその手に、釘の痕を見たのでしょう

 

その時、道々イエスから聞いていた聖書の解き明かしが、新しい意味をもって彼らに迫ってきました

 

彼らは、「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか」と語っています

 

彼らは早速立って、エルサレムに戻り、復活のイエスとの出会いを他の弟子たちに報告しました

 

彼らは、本来いるべき場所に戻ったのです

 

生けるキリストとの出会いを伝えずにはおれなかったのです


あなたの心は、みことばによって燃やされていますか

 

日々のデボーションが、生けるキリストと出会う場になっていますか

 

あなたとともに歩いておられるイエスを、今認めましょう

(アーメン)

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きょうの祈り

イエス・キリストの父なる神さま。どうか私の霊の目を開いてくださいどうかきょうも、生きておられるキリストとともに歩むことができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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年間聖書通読

出エジプト記15~16、ヨハネの福音書9

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2024年2月2日(金)☀20℃

 

今日もよいお天気になりそうです。

昨日は終日、猫ちゃんは

ベランダを行き来していました。

暖かくなって お外が楽しいようです。

 

適度な温かさは、筋肉もほぐれて

ノビノビできますね。

 

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イエスさまに、

まったく気が付かない二人のお弟子さん。

イエスさまは「別のお姿」ですものね。

 

解説にもあるように、さらに、

彼らの「霊的な目」は閉ざされ、

その信仰は「過去形」になっていた。

 

イエスさまを認識できない。

呼吸を確認できる距離なのに?

 

「霊的な目」が曇り、

「過去形の信仰」になることへの警告。

 

信仰生活が長くなればなるほど

そんな状態が忍び足でやってくるような気がします。

忍んでやってくるからなお、気づきにくい。

 

「復活」のイエスさまとの出会いは

無名の二人の弟子を

「本来いるべき場所へ」戻した。

「信仰が復活」した。

 

私も、

「復活」を信じたから

「イエスさま」を信じたのだった―。

信仰のはじめ。

 

解説でも言及されていた問題点。

「十字架の意味を理解していなかった」

これは、私にもあてはまります。

 

「復活」を信じて喜び踊ったものの、

私にとっての「十字架」は遠かった。

 

「十字架」がどれだけ迫ってくるかで

その人の「信仰」の質が違ってくるように思います。

 

「悔い改め」はもちろん、

「回れ右」でまちがいないのだけれど、

主の十字架はまたそれとは別の次元のもののように思えます。

 

主の十字架を自分のものとして

真に迫る体験をした方こそ本物だ…

と、私にはそう思えるのです。

 

されど慰めは、

それぞれがそれぞれに

「信仰の量り」が与えられていること。

おのが分をわきまえて、それでよし、でいいかもしれません。

されどまた、「求めよ、さらば与えられん」ですから、「教えてください」と欲し続けてしまいます。

 

わかることができて、

わかったことを生きられるようにと願うのでアリマス。

ささやかな 主への願いです。

 

主を知ることは最大のよろこび。

主をよろこぶことは我が力なるぞかし。

 

ハレルヤ

 

今日もイエスさま 

みことばをありがとうございました。

尊き主イエスの聖名によって

感謝いたします。

(^-^)。

 

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昨日拝見した動画。

貼付させて頂きました。

アーメン