マルコ福音書15章1節
(マタ27:1-2,11-14,ルカ23:1-5,ヨハ8:28-38)
〔新共同訳〕
【ピラトから尋問される】(1)
1夜が明けるとすぐ、祭司長たちは、長老や律法学者たちと共に、つまり最高法院全体で相談した後、イエスを縛って引いて行き、ピラトに渡した。
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解説を見てみます。
■BIBLEnavi999P
なぜユダヤ人指導者たちは、イエスをローマの総督であるピラトのところに行かせたのか。
ローマ人はユダヤ人から、死刑を執行する権利を奪っていた。
だから、法に則してイエスが死刑の宣告を受けるためには、ローマの指導者によって判決が下されなければならなかったのだ。
ユダヤ人指導者たちは、イエスに十字架刑を受けさせたかった。
彼らは十字架を、神ののろいを意味するものと考えた(申命記21:23)。
彼らは、イエスは神に祝福されてはおらず、逆に、のろわれた者であったと、人々に訴えたかったのである。
申命記21:22-23
22ある人が死刑に当たる罪を犯して処刑され、あなたがその人を木にかけるならば、23死体を木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日のうちに埋めねばならない。木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである。あなたは、あなたの神、主が嗣業として与えられる土地を汚してはならない。
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■clay解説全文
サンヘドリンからピラトへ
〔夜が明けると〕
ここまでの展開を再確認してみます。
ゲッセマネで逮捕されたイエスは、影の実力者であるアンナス(大祭司カヤパの舅)の尋問を受け、次に大祭司カヤパの官邸でサンヘドリンによる宗教裁判を受けました。
これは夜中に行なわれた非公式の裁判でしたが、その場で冒涜罪で死刑に値することが決定されました。
夜が明けると、再び裁判が開かれています。
律法では、朝の犠牲が捧げられる前(午前9時前)に裁判を開いてはいけないことになっていました。
それで、形式上、夜が明けてからの裁判であるかのように体裁を整えたのです。
この裁判の様子は、ルカの福音書22:66~71に記されています。
サンヘドリンの議員たちは、「あなたがキリストなら、そうだと言いなさい」と追求します。彼らはすでに「冒涜罪で死刑」という判決を出していたのです。この質問は、それを確認するためのものでした。イエスは、「あなたがたの言うとおり、わたしはそれ(神の子)です」と言われました。これで、イエスの冒涜罪が確認されました。
〔総督ピラトのもとへ〕
当時、ユダヤ人には死刑を執行する権利が与えられておらず、ローマの法廷で死刑が確定しない限り、イエスを死刑にすることはできませんでした。
そこで今度は、反逆罪を理由に、イエスをローマ総督ピラトに引き渡します。
その時点で、ユダの役割は終わりました。ユダは宗教裁判と政治裁判の間に、自殺をしています(マタイ27:3~10)。
人は、自らが蒔いた種の刈り取りをすることになります。
イエスが弟子たちと過越の食事(最後の晩餐)を食べた木曜の夜から、十字架につけられる金曜の朝までのわずか半日の間に、実にさまざまなことが急テンポで展開しています。
これは、ユダヤ人の指導者たちもイスカリオテのユダも、予想だにしなかったことです。
神の小羊は、過越の祭りの期間に十字架につけられて死ぬというのが、神の計画でした。
人は立ち騒ぎ、自らの思いを成し遂げようとします。
しかし、
神の計画だけが静かに、しかし確実に進行します。
このことは、神を信じる者にとっては良き知らせです。
あなたは、神とともに歩んでいますか。
きょうも、神のみこころを求めて歩みましょう。
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きょうの祈り
天の父なる神さま。人がいかに立ち騒いでも、あなたの計画は微動だにしません。きょうも、あなたのみこころの道を歩むことができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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2024年1月20日(土)☀&☁24℃
安息日の午後の礼拝の前に、
一つのメッセージを聞きました。
「ジョセフ・プリンス」さんの説教動画です。
元気が出ました。
すごいな、と思いました。
「聞いて、元気になる」
なぜか、じわじわと元気になる。
感謝でした。
また、本日の集会では、
箴言3章1~18節が朗読されました。
箴言3:3-4(文語訳)
仁愛(いつくしみ)と眞實(まこと)とを汝より離すことなかれ 之を汝の頸にむすび、これを汝の心の碑にしるせ
さらば汝 神と人との前に恩寵(めぐみ)と好名(ほまれ)を得べし
同新共同訳
慈しみとまことがあなたを離れないようにせよ。
それらを首に結び 心の中の板に書き記すがよい。
そうすれば、神と人の目に
好意を得、成功するであろう。
思います。
「信仰第一よ。人に理解されなくったっていい」
という時もありましょうが、
それ一辺倒だと、かなり偏った人生になってしまう。
人は周囲からの「好意」によって助けられ、また慰められ、励ましを得られる。強がって、他者の「好意」の価値を疎かにしてはいけないのだ。私には、血気盛んな頃は、全く悟れなかったことです。
「神と人との前に恩寵(めぐみ)と好名(ほまれ)を得る」こと、今ならほんとうにアーメンです。
「神と人との前」のバランス。
これもまた、祈り求めていくことなのでしょう。
他者から愛されていくことは大事です。
ハレルヤ
尊き主イエスの御名を崇めて
感謝いたします。