ロマ書12:1~2
1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。
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義認(3)
余分な付加物
義認についての3回目の学びです。
私たち人間は、「信仰義認」を唱えながらも、救いの条件として余分なものを付け加えてしまうことがあります。
自分の側からも何か貢献しないと、不安になるのです。
代表的な5つの付加物がありますが、きょうは残りの2つを取り上げます。
残りの2つ
(4)悔い改め。
① 自らの罪を悔い改めること、つまり、罪を悲しみ、2度と罪を犯さないように決心することを、救いの条件とする教えがあります。これもまた、業による救いです。
② まだ新生していない人に、どうしてそのような決心ができるでしょうか。また決心をしたところで、すぐに挫折するでしょう。
③ 悔い改めとは、心の変化のことです。つまり、今まで自分が考えていた見方、理解を変更することです。
啓示された福音の真理に対して、キリストに対して、さらに、罪に対して見方を変えることです。
それは、罪を悲しむこととは違います。
④ 悔い改めは、信じるという行為の中に含まれています。
パウロは、1テサロニケ1:9でこう書いています。
「私たちがどのようにあなたがたに受け入れられたか、また、あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり、」。
この聖句では、偶像から離れることと、神に立ち返ることとは、同時に起こっています。
(5)メシアの主権に従う(ロードシップ論)。
「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい」(ロマ12:1〜2)。
① この聖句を根拠に、メシアの主権に従うことが救いの条件であるとする教えがあります。
② しかし、この聖句は、救いの条件を教えているのではありません。すでに救われた者に、弟子となるための条件を教えているのです。
救いは、「信仰と恵み+ゼロ」です。信じた瞬間、その人は新生しています。そして、永遠のいのちが与えられています。
一度与えられた救いは、取り去られることがありません。
そのことのゆえに、神の御名をたたえようではありませんか。
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きょうの祈り
イエス・キリストの父なる神さま。私は、信仰と恵みによって救われました。どうか私を、忠実なキリストの僕と変えてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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年間聖書通読
列王記第一3~4、使徒の働き14
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2023年6月17日(土)☁?27℃
たまに、いまだに、思う。
「礼拝」って何だろう。
「教会」での「礼拝」って何だろう。
とくに、その「礼拝」に失望して帰ってくるときは、とくに。
日々の日常があまりにも「みじめ」だから、「敗北者」だから。
よけいに、「礼拝」にこそ望みをかけてしまうのか。
それで、そんな鬱屈から逃れるための「み言葉」として、
ロマ12:1をのみこんでしまう。
「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。(新共同訳)」
これで、つい、
「教会」の「礼拝」になんて、行かなくても??!
って、自己都合のよいように考える。
だけどまた、
ヘブル10:25によって「教会」へと駆り立てられる。
「ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。(新共同訳)」
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考えてみれば、
私の所属する「教会」は、ちょっと変わっている。
「聖書研究」なるものもないし、「奉仕」の強要?も全くない。
「横」のつながりのようなものはホント希薄。
ゆえに、その人自身がいかに「神」とつながっているか、縦の関係がしっかりしていないと案外根づかなくなるのかもしれない、とふと思ったりします。
私的には、そんなところが性に合っていたのかもしれません。
不思議なことに、「教会」で集っているうちに「友人」ができてくるものでした。信仰を土台に交わえる人が与えられることはこの上もなく頼もしいものです。
箴言のみ言葉がふと頭をよぎる。
「鉄は鉄をもって研磨する。
人はその友によって研磨される。」
(新共同訳)箴言27:17
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キリストの「弟子」、とよく語られます。
わたしは、いまだに、ピンっときません。
(多分私の所属する教会ではあまり語られることがないように思います。)
「神の子」たる「身分」の「わたしたち」。
「弟子」という言葉よりも、「子たる身分」とされたことを喜ぶことがよく講壇から語られたように思います。かえってそれは私的には、このうえない喜びと安心に満ちる言葉でもあり、非常な慰めとなりました。
私的に「弟子」という言葉の印象はかなりストイックに感じてしまい、いまだについていけない感じでアリマス。これって何なのでしょう。
・・・・。
今日は、このへんで筆おさめ。
ちょっと、考えがまとまりません💦。
ただ、今回のお勧めで慰めなる言葉。
悔い改めは、信じるという行為の中に含まれています。
一度与えられた救いは、取り去られることがありません。
そのことのゆえに、神の御名をたたえようではありませんか。
ハレルヤ
感謝でした。
ほんと、日々、努力して!(この場合の「努力」とは「戦い」に勝利する、ということ)日々「イエス」さまを見上ていけますように。
考えてみれば、一日のほとんどを「世」のことに使っているのです。これでは、当然、自分を喜ばすばかり。されど実際、「神に喜ばれる」ことって私的にはどんなことなのか、使命感のない私には、神さまのためにできることってなかなかわかりません。だけど、一つ思うに、日々「神を喜ぶ」ことは なにはなくても出来るよね!ということ。
まずは、日々、精一杯、
主イエスにあって、
神を喜んで過ごすことができますように。
つぶやきや愚痴や弱気を
追い払えますように。
飲み込まれませんように。
心を強くできますようにと、
まずは、
祈っていけますようにと
これもまた願うのみ。
主イエスさまの平安と希望によって
生きることができますように。
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尊き主イエスの御名を崇め
主イエスによって
父である神に感謝いたします。
(コロサイ3:17)
ハレルヤ