ロマ書14:20~23「クリスチャン生活の原則①」<2義的なことで裁きあわないこと> | 聖書と私とコーヒーと+ワン

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~「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ14:6)~

この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を
あなたがたに与えることができます。(Ⅱテモテ3:15)

 

ロマ書14:20~23

<新共同訳>

兄弟を罪に誘ってはならない

20食べ物のために神の働きを無にしてはなりませんすべては清いのですが食べて人を罪に誘う者には悪い物となります

 

21肉も食べなければぶどう酒も飲まずそのほか兄弟を罪に誘うようなことをしないのが望ましい

 

23あなたは自分が抱いている確信を、神の御前で心の内に持っていなさい自分の決心にやましさを感じない人は幸いです

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クリスチャン生活の原則(1)

同じ教えの繰り返し

2義的事項に関する勧告が続いています。前回は、強い人は、弱い人のために自分に与えられている自由を「愛の律法」によって制限すべきだと教えられました。

 

今回はその続きです。

「食べ物のことで神のみわざを破壊してはいけません。すべての物はきよいのです。しかし、それを食べて人につまずきを与えるような人の場合は、悪いのです。肉を食べず、ぶどう酒を飲まず、そのほか兄弟のつまずきになることをしないのは良いことなのです」(20〜21節)。

 

(1)パウロが同じことを繰り返し書いているのは、このテーマがローマ教会の信者たちにとって極めて重要なものだという判断があったからです。これは、現代の私たちにとっても重要なテーマです。

 

2義的なことについて裁き合わないということが教会の中に定着したなら、その教会の雰囲気は激変することでしょう

 

(2)教会史の中では、2義的なことに関する意見の違いによって、多くの教派の対立が生じました

 

ある意味、今もそのような状況が続いています

 

エルサレムの聖墳墓教会や、ベツレヘムの生誕教会では、そこを分割所有する複数の教派が、感情的なもつれから対立していますそれが一般のメディアに面白おかしく取り上げられることがあります悲しいことです

 

聖餐式について

先に進む前に、教派の対立のもう一つの例として、聖餐式を取り上げます。

 

聖餐式には4つの神学的理解があります

 

(1)化体説。これはカトリック教会の立場で、「司祭の聖別の祈りによって、パンとぶどう酒は、実際にキリストの体と血に変化する」と教えます。

 

(2)実体共存説ルター派と聖公会がこの説に立ちます。「パンとぶどう酒の実体は変化しない。しかし、キリストの体と血の実体は、パンとぶどう酒の中に共在する」という教えです(化体説と同じ)。

 

(3)霊的存在説ジョン・カルバンの立場です。「キリストの体と血は、パンとぶどう酒の中に物理的にではなく、霊的に存在している」。

 

(4)記念説。「聖餐式は、イエスを記念するために行うものである」。ツウィングリ(スイスの宗教改革者)がこの説を提唱しました。これが最も聖書的な説です


聖餐式の目的は、キリストを記念することと、信徒の一致にあります

 

神学的理解が異なる人とは聖餐式をともにすることができないというなら、本来の目的を破壊していることになります

 

これもまた、悲しいことです

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きょうの祈り

イエス・キリストの父なる神さま。1義的なことに関しては妥協せず、2義的なことに関しては寛容な心を示すことができますように、私を助けてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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年間聖書通読

士師記7~8ルカの福音書12

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<4月2023:ヒルザキツキミソウ:路傍にて>

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2023年4月18日(火)17:00現在

☀24℃/湿度71%/風速8m/s

 

(clay雑感)

 

「聖餐式」の「神学」が異なるだけで、

「チャーチ」分裂、あらたな「教派」となる?

 

そうかもしれませんネ。

「聖餐式」の捉え方は重要なのかもしれません。

 

「分別」を求められる「聖餐式」。

「聖餐式」の時によく朗読される箇所は、

Ⅰコリント11章とかヨハネ6章あたり?ですネ。

 

だれでも、自分をよく確かめたうえでそのパンを食べその杯から飲むべきです主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。(Ⅰコリント11:28-29)」

 

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「キリスト教」に感心を持ち始めると、まず最初にぶちあたる壁。「なぜ、こんなに教派があるの?」「何がちがうの?」

 

最初に出会う「教会」はある意味「不可抗力」のような気さえします。たまたま身近にいた人の「導き」や「宣教」によるところが大きい?

 

「求道」中ですら、

なんというのでしょうか・・

「危い」中を歩まされる?

 

されど、幸いなのは、

今の時代、「聖書」は簡単に手にとれる。

書店にいけばどこででも手に入る。

そして、

「聖書」の「ことば」に直接触れることができる。

自分で「聖書」を読むことができる。

 

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あるとき、思いました。

 

「福音は単純」だ、と。

 

Ⅰコリント15章。

 

処女から産まれたイエスさま、

われらの呪いを引き受けて

身代りに「死んで」くださった。

そして、3日目に墓からよみがえった。

 

それから、40日後に昇天し、

今、再臨の時に備えていらっしゃる。

 

ただ、これだけ。

 

このギフトを受け取って

「罪のゆるし」と「更生」の洗いを受ける。

 

ただ、これだけ。

 

もちろん、

いつまでも「幼児」のままではいられない。

「大人」になるようにと「聖書」も勧めている。

 

糸が絡んでがんじがらめになってきたら、

「原点」に戻ればいいのだ!と

思うようになりました。

 

それでも、

すぐ揺らいでしまうのは、

「行い」がともなわないゆえの弱さ?

なのかもしれません。

 

「御言葉を聞いて行う」、

これが、「成長」の秘訣なのでしょう。

 

Ⅱテモテ2:21

だから、今述べた諸悪から自分を清める人は、貴いことに用いられる器になり、聖なるもの、主人に役立つもの、あらゆる善い業のために備えられたものとなるのです

(アーメン)

 

ハレルヤ

尊き主イエスの御名を崇め、

主イエスによって

父なる神に感謝いたします。

(コロサイ3:17)

おねがい

 

わたし(たち)はただ

然り、然り、否、否であるべき。

ハレルヤ