ロマ書14:1~4
1 あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。
2 何でも食べてよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜よりほかには食べません。
3 食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです。
4 あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。
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教会内の調和を求めて(3)
信仰の強い人への勧告
ローマ教会にあった問題に関して、パウロはこう勧告しました。「あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。何でも食べてよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜よりほかには食べません」(1〜2節)。
再確認ですが、弱い人、強い人の区分は、大まかなグループ分けです。
さらにパウロの勧告が続きます。「食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです」(3節)。
まず、「信仰の強い人」への警告を見てみましょう。
(1)その人は、良心の呵責を感じないで肉を食べています。
彼は、食べ物が自分の内面を汚すことはないことを知っています。それゆえ、「信仰の強い人」なのです。
(2)その人は、注意していないと、弱い人を侮るようになります。
しかし、優越感はキリストの弟子にふさわしくない感情です。
(3)「侮る」は、ギリシア語では「エクスーセネオウ」という動詞です。これは非常に強い意味を持っています。
その用例として、ルカ23:11を上げることができます。「ヘロデは、自分の兵士たちといっしょにイエスを侮辱したり嘲弄したりしたあげく、はでな衣を着せて、ピラトに送り返した」。
ヘロデ・アンテパスが主イエスを侮辱した際の動詞が、「エクスーセネオウ」です。
信仰の弱い人への警告
(1)「信仰の弱い人」とは、良心のゆえに肉を食べない人です。
「弱い」と言われる理由は、まだ十分な知識に達していないからです。
(2)その人は、肉を食べている人を見て、裁くようになります。
彼の判断基準によれば、肉を食することは、良心に反することだからです。
例えば、ある人が育った教会では、受難週の断食が奨励されていたとします。その人にとっては、受難週に断食するのが当然で、そうしないことは良心の痛みをもたらすことです。そこで、熱心に断食します。ところが、他教会の信者と交わると、断食しない人がほとんどであることに気づきます。そこでその人は、「なぜ断食しないのか」と問い、やがて、他の人たちを心の中で裁くようになります。これは異常事態です。
(3)パウロは、「信仰の弱い人」は「信仰の強い人」を裁いてはならないと命じます。
その理由は、神がその人を受け入れてくださったからです。
互いの間に調和が維持されるように、主からの知恵を求めようではありませんか。
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きょうの祈り
天の父なる神さま。互いの間に調和が維持されるために、あなたからの知恵をお与えください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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年間聖書通読
ヨシュア記11~12、箴言15
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<3月2023:タチアワユキセンダングサ:イオン前にて>
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2023年4月10日(月)
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2023年4月11日(火)19:00現在
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(clay雑感)
信仰の強い人は、弱い人を「侮り」、
信仰の弱い人は、強い人を「裁く」。
「侮り」と「裁き」。
結局、これらは、同類?なのですネ。
どちらも「真の知識」に至っていない?
「信仰の弱い人を受け入れなさい」
けっこう、難しいことです。
「あなたがたは一体だれなので」
と あります。
ほんとデスネ。
一体「何様」?だから、
他者を「侮り」「裁く」のだろう?
おかしなものですネ。
等しく、
主イエスによって贖われた者デス。
でもたしかに・・、
「知識」の差はあります。
教えてもらう人は
教える人がいなければ
「教え」を請えない。
「教える人」は
「教えを求める人」がいなければ
その分別も知識も伝えようがない。
たしか聖書のどこかにあった。
強い人は弱い人のその弱さを
負わなければならない?と。
・・・・ありました。
わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。
---ロマ書15:1---
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引用します。
※BIBLEnavi1243p※
【14:1以下】
弱い信仰とは何か。
外部の圧力に対する力がまだ発達していない未成熟の信仰について、パウロは話している。
例えば、かつて偶像を拝んだ人がクリスチャンになったら、その人は、キリストが自分を救ってくださり、しかも偶像には真の力はないことを、完全に正しく理解するかもしれない。
それでも、過去の経験があるので、偶像崇拝で使用された肉を気づかずに食べたら、その人はひどく動揺するかもしれない。
また、ユダヤ教の祝祭日を守っていた人がクリスチャンになったなら、信仰によって救われたことを理解していても、祭りを祝わないことで、不信仰な心地がするかもしれない。
パウロは、両方の弱い兄弟たちに、愛をもって応じている。
両者とも自分の良心に従って行動しているが、彼らの偽りのない信念を規則にする必要はない。
確かに、いくつかの問題は信仰の中心であり、論争する価値があるが、多くは個人的な相違に基づいているので、規則で規制されるべきでない。
私たちの原則は本質的には一致であり、非本質的には自由であり、最も大事なものにおいては愛であるべきである。
(アーメン)
「強い者」の方こそが、
「寛容」を試される?のでしょか?
「弱い信仰とは何か」
「外部の圧力に対する力がまだ発達していない未成熟の信仰」
自分自身の「信仰」を表明や告白ができないでいる者も、あるいはまだまだ「弱い」者かもしれませんね。環境的に、言いたくても言えない立場の方々もいらっしゃるかもしれませんが、「言い表す」ことが一つの「壁」を破る道のような気もします。
周囲への「信仰表明」を憚らない者であったとしても、その次の成長過程、成熟への階段が待っているのですよね。
一つ一つの階段をクリアして、
信仰の成熟者として
信仰の先輩方に認めてもらえたら
嬉しく、幸いですネ。
ハレルヤ
尊き主イエスの聖名を崇めて
感謝讃美申し上げ、
主イエスによって
父である神に感謝いたします。
(コロサイ3:17)