ロマ書12:9~13
9 愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。
10 兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。
11 勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。
12 望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。
13 聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい。
***************************************
愛の勧め(3)
13の勧め
これまでに学んだ12章の内容は、① 献身の勧め(1〜2節)と② 謙遜の勧め(3〜8節)でした。今私たちは、③ 愛の勧め(9〜13節)について学んでいます。
「愛の勧め」の中には、13の勧告が記されています。これらの勧めを実行する力は、聖霊から来ることを覚えましょう。
きょうは、勧告の④ と⑤ を取り上げます。
4.兄弟愛をもって心から互いに愛し合い(10節a)
翻訳の比較をしてみます。
「兄弟の愛をもって互にいつくしみ、」(口語訳)、
「兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、」(新改訳)、
「兄弟愛をもって互いに愛し、」(新共同訳)。
(1)この節には、愛に関する2つの言葉が出てきます。
ともに「フィロス」という接頭語が付いています。
① フィラデルフィアは、「兄弟愛」です。
② フィロストルゴスは、「親子愛」です。
信者は、神の家族として互いに愛し合うべきだというのです。
(2)新約聖書の教えでは、兄弟姉妹への愛が未信者への愛よりも優先されます。
パウロは、ガラテヤ6:10でこう教えています。
「ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行いましょう」。
受けることよりも、与えること(奉仕すること)に留意しながらきょう一日を過ごそうではありませんか。
5.尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい(10節b)
(1)パウロは、ピリピ2:3でこう教えています。
「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」。
初代教会の信者たちの特徴は、謙遜を最上の美徳として追及していたことです。
(2)自己中心性(エゴホリック)が教会内の争いの原因となることを思えば、謙遜がいかに重要な信者の資質であるかが分かります。
謙遜を身に付ける方法は、
① 相手の内にキリストを見ること、また、
② 相手に対する敬愛と、相手は自分よりも優れているという認識を持つことです。
クリスチャンはみなキリストの弟子です。
弟子は師の生き方を観察し、そこから教訓を学びます。
「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。
人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました」
(ピリ2:6〜8)
***************************************
きょうの祈り
イエス・キリストの父なる神さま。自己中心性が教会内に争いを作ります。キリストの弟子として、謙遜を身に付けることができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
***************************
年間聖書通読
民数記33~34、マタイの福音書16
***************************
~~~~~~~~~~~~~~
2023年3月15日(水)
☀22℃/室温24℃/64%pm
*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*
2023年3月19日(日)
☁19℃/am/室温23.9℃/湿度60%
最近は、
「ヨハネの黙示録」の朗読を聞きながら床に就きます。
以前はすぐに寝入っていたようですが、近頃は2~3回聞き直してしまいます。寝入るどころではなくなりました。
紛失したと思っていたCD(1~11章)がみつかって、2~3日前からはそればかり聞いています。
本日、ふと、「サルディスにある教会にあてた手紙」を聞いて、
まるっきり「私」?のこと?だと思ってしまいました。
「あなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいる」
・・・。
「実は死んでいる!」
だけど、あとに続く言葉になぐさめを得ます。
「目を覚ませ!
死にかけている残りの者たちを強めよ!」
この「教会」は神さまの目には何故「死んでいる」と映ったのでしょう? 以前に学んだようにも思いますがすっかり忘れています。・・。
とにかく、「あなたは死んでいる」と「自分」に言われたように感じたのでした。(__)
*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*
「新約聖書の教えでは、
兄弟姉妹への愛が未信者への愛よりも優先されます」
(アーメン)
初めてこのお勧めにふれたとき、
とても安堵したことを覚えています。
とても「楽」になりました。
「未信者への愛よりも」
「兄弟姉妹への愛」が優先される。
アーメン!と叫びたくなりました。
あるいは、今、
神を否定する人たちでも
いつかは 神を愛する者となるのかもしれません。
でも、その「いつか」は私(たち)にはわかりません。
あるいは、最後まで神を否定し続けるかもしれません。
それも、わたし(たち)にはわかりません。
「神の愛」の実践に初歩は、まずに、
「神」の「愛」を知った人々の間で行われ得るのだと思います。
「神の愛」を認識できる人々との間でまず「実践」がなされ、「行い」として引き出されていくものなのだろうと思えます。
それはまた、段階的に、未信者へも開かれていくのだろうとも思えます。
神の家族の中で潤滑な関わりを得られれば得られるほどに、神の愛の領域と対象は無限に広がっていくのだろうとも思えます。
ただ、はっきりしていることは、
「善」と「悪」の区別。
神の愛の「峻厳」。
「裁き」もまた「神の愛」の内であることを知ります。
(雑感)
ハレルヤ
尊き主イエスの御名を崇め
御名によりて感謝いたします。