ロマ書8:28
28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
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神の摂理の御手(2)
28節
ローマ8:28の2回目の学びです。
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」。
神は、常に最善の計画を持って、私たちのために働いておられます。これは前回学びました。
では、誰のために「すべてのことが益となる」のでしょうか。
それを考えてみましょう。
(1)これは、人間一般に対する約束ではありません。「人間万事塞翁馬」という格言は、すべての人に当てはまるものですが、ローマ8:28はそうではありません。
(2)この約束は、私たちクリスチャンに与えられたものです。
「神を愛する人々」とありますが、これは私たちのことです。
ここでの「愛する(アガパオウ)」は、分詞の現在形です。つまり、私たちが神を愛することもまた、継続した動作だということです。
このことから、神と私たちの関係は、日々更新される新鮮で永続性のある愛の関係だということが分かります。
試練の中に置かれた時には、より一層神を愛することを心がけようではありませんか。
(3)さらに私たちは、「神のご計画に従って召された」者たちです。
「神を愛する人々」という言葉は、人間の視点から見た私たちの姿です。それに対して、「神のご計画に従って召された」という言葉は、神の視点から見た私たちの姿です。
摂理のまとめ
摂理を定義すると、およそ次のようになるでしょう。
「摂理は、神を愛し続ける者への神の継続的な守りと導きである」。
ここで注意すべきことがあります。
それは、「益となる」とは、必ずしも私たち人間が考える内容とは合致しないということです。
ましてや、これは物質的祝福やこの世における成功の約束ではありません。
「益となる」とは、御子の姿に似るという目標に対して、「益となる」という意味です。
そう考えると、試練というものは神のトータルプランの一部であることが分かります。
摂理は、私たち人間の責任を軽減するものではありません。つまり、摂理があるから何をしてもいいということではないのです。
(1)アッシリヤやバビロンは、イスラエルの民を裁く神の器となりました(これは摂理です)が、彼らもまた神から裁かれました(罪に対する裁きです)。
(2)私たちの罪や失敗によって神の業が進んだとしても、その罪や失敗を肯定することはできません。
きょうも神の恵みの中を歩ませていただきましょう。
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きょうの祈り
天の父よ。神を愛し続ける者たちに対して、あなたの継続的な守りと導きが与えられていることを感謝します。きょうも恵みの中を歩ませてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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年間聖書通読
創世記 27~28、箴言 2
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<1月2023於那覇法務局内>
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2023年1月14日(土)☆彡23℃
室温25℃/湿度72%
本日の安息日礼拝。
感謝でした。
3人の先生方が講壇に立たれました。
それぞれのお勧め、お証し、御言葉が語られました。
今回は、これまでとちがって
「慎み」と「謙遜」の柔らかさ、
主の平和のいちりんに触れたかのようにも感じました。
一番お若い男性の先生の語る「講壇の祝福」。
集うわたし(たち)も「講壇の祝福」を望みます。
「礼拝」と名のつくお集まり。
どうか、その場所にて
主のご臨在に与ることができますよう
深く強く望み続けるだけです。
神さまは願いを聞いていてくださると
信じます。
どうか、
「講壇の祝福」そして
そのところで、ただひたすらに
「主」を「礼拝」させてくださいますように。
主の御衣の裾に触れさせてくださいますように。
どうかよろしくお願いします。
尊き主イエス・キリストの御名によって。
ハレルヤ
アーメン
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「神を愛する者、すなわち
御旨によりて召されたる者の爲には、
凡てのこと相働きて益となるを我らは知る」
(アーメン)
失ってしまったと思える時間、その間にもっと別の「時間」を過ごせたのではないかとも思えるほどの疲労と喪失。しかし、動けない「場所」がある。それによって、「祈る」ことを覚える。
何のために「祈る」のか。「煩い」の原因となるものへの「祈り」が始まる。すると、その「原因」への憐れみが生じる。事象であれ物であれ人であれ、霊的痛みに至る原因と過程へと思いは巡る。「完全」なものはない。
されど、
今日のお勧めにもありましたように、
神は、常に最善の計画を持って、
私たちのために働いておられます。
を真摯に受け止めるならば、
「忍耐」を強いられた時間も
神の力強き「最善の計画」を目撃するための期間であったと告白できましょう。
それは、きっと
忍耐の時が重く長ければ長いほど
願い祈り、喪失したかのような時間があればあるほど、それは「倍」となって返ってきそうな予感すらするのです。
なんということでしょうか。
それだけで、
喜びが胸の奥底から吹きだしてきそうです。
されど、弱き者かな。
いくども、「失望」の憂目にあってきますと、
「ぬか喜び」となる恐怖も隣あわせ。
だから、心に安全装置をかけてしまいます。
「まだまだ、わからないヨ」
「今日だけかもネ」
「またすぐ、もとにもどってんだ」
「我慢はえんえんと続くんだ」
だけど、あきらかに、
事態の変化に気づきます。
「助け手」が送られてきているではありませんか。
「講壇の祝福」。
神さまを信じよう。
神さまを信じよう。
週に一度の「礼拝」と名のつく集まり。
主御自身が「あつまれ」という集会。
その場所で「何」をするのですか?
主ご自身が「集まれ」と号令をかけているその場所。
どうか、主御自身の臨在の確かさをお示しくださいますように。
どうかどうかよろしくお願いいたします。
わたし(たち)は、「主」にお会いしに
出かけるのです。
よろしくお願いいたします。
ハレルヤ
尊き主イエスの御名を崇めて
感謝いたします。
呟きのような雑感になってしまいました。
が、嬉しい告白でもあります。
ちなみに今日は、すこぶる体調が悪く
直前まで臥せっていました。
結局、お薬にたよりましたが、
なんとか「礼拝」に集えました。
なおさらに、本日の喜びは大きいです。
ほんとうに感謝でした。
送迎の妹にも感謝です。