Ⅱテモテ2:20-21「大きな家にある器たち」・・最高・最善に達しないことに甘んじないように。 | 聖書と私とコーヒーと+ワン

聖書と私とコーヒーと+ワン

~「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ14:6)~

この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を
あなたがたに与えることができます。(Ⅱテモテ3:15)

Ⅱテモテへの手紙2:20~21

<文語訳>

20(おおい)なる家の中(うち)には金銀の器あるのみならず、木また土の器もあり、貴きに用ふるものあり、また賤しきに用ふるものもあり

 

21人もし賤しきものを離れて自己(みづから)を潔くせば 貴きに用ひらるる器となり浄められて主の用に適ひ、凡ての善き業に備へらるべし

*-*-*--*-*-*-*-*-*-*-*

<新共同訳>

20さて、大きな家には金や銀の器だけではなく、木や土の器もあります。一方は貴いことに、他方は普通のことに用いられます。

 

21だから、今述べた諸悪から自分を清める人は、貴いことに用いられる器になり、聖なるもの、主人に役立つもの、あらゆる善い業のために備えられたものとなるのです。

*-*-*-*-*-*-*--*-*-*-*-

<TEV訳>

20In a large house there are dishes and bowls of all kinds: some are mede of silver and gold, others of wood and clay; some are for special occasions, others for ordinary use.

 

21Those who meke themselves clean from all those evil things, will be used for special purposes, because they are dedicated and useful to their Master, ready to be used for every good deed.

**************************************

引用します。

<clay聖書解説コレクション「テモテへの手紙第二」P74>

 

不義を離れるべきだということを、パウロは器のたとえを用いて解説しています。

(1)大きな家(教会)には、さまざまな器(教会の構成員)があります。尊いことに用いられる金や銀の器もあれば、卑しいことに用いられる木や土の器もあります。

(2)卑しい器とは、偽教師のことです

(3)尊いことに用いられたいと思うなら、偽教師との交わりを離れ、聖別された者としての歩みを始めなければなりません。そうすれば、あらゆる良いわざに間に合う者、役に立つ器となれます。

(4)具体的には、「若い時の情欲を避け、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求める」ということです。「若いときの情欲」とは、肉的な欲望だけではありません。自我の強さ、論争好きな性質、性急な判断、野心などもこの中に含まれます。

 

*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*

<新実用聖書注解p1734>

20-21節。

不義を離れるべきことを、

器のたとえを用いて説く。

大きな家は教会で、器はその構成員。尊いことに用いられる金や銀の器もあれば、卑しいことに用いられる木や土の器もある。

この卑しい器が避けるべき偽教師のこととなる

 

器は用途によって尊さが変わる。

それで、〈これらのことを離れるなら〉と、卑しい用途を離れることつまり偽教師とその交わりから離れることが求められる。そうしなければ、神とみわざのために聖別された〈聖められたもの〉〈有益なもの〉〈あらゆる良いわざに間に合うもの〉とはならないのである。

 

*-*-*-*-*-*-*-*--*-*-*-*-*-

<BIBLEnavip1416>

--2:20,21--

ここでパウロはテモテに、キリストが最も尊いことに用いることができる人になることを強く勧めた。

 

神の最高や最善に達しないことに甘んじないようにしよう神が御心の器としてあなたを用いるのに任せよう

 

罪とその結果が、神があなたの人生になすことができることの妨げにならないように

 

神のそばにとどまり、あなた自身をきよく保つことによって

 

あなたはこのことを行うのである

 

神はどんな状況も回復することができるがキリストのそばにとどまり、即座にキリストに用いられる準備ができているほうが、どれほど良いことだろう

~~~~~~~~~~~~~~


~~~~~~~~~~~~~~

昨日、在東京の姉妹からの電話。

ついつい長話し。

 

黙示録のある箇所の話しで、

個人的な感想を漏らしていたら、

姉妹が突然この聖句を披露した。

 

神さまの家には

実にいろんな「器」がある。

でも、みな、「神の家」に置かれている。

 

小さき者も大なる者もいる。

貴きに用いられる者もあれば

いたって目立たぬ者もいる。

でも、

それら皆が、同じ「神の家」に、いる。

置かれている。

同じ「箱舟」の中。

神さまの「安全」と「守り」の中に置かれている。

 

そう思ったとき、

「箱舟」の中に置かれていることの幸いに感謝しました。

 

どんな小さな働きしかできなくても、

もしくは、

全く働きができなかったとしても、

そこに「置かれている」ことの幸い。

 

神さまの「家」に置かれている。

感謝だと思いました。

 

それで、

この御言葉ってどこにあった?

・・・・?

会話中には全く出て来ませんでした。

 

改めて、探してみましたら、

Ⅱテモテ2:20-21、でした。

 

勝手なご都合解釈で一喜一憂しないようにと、またまた、3つの解説書を参考にさせて頂きました。

 

すると、「賤しきに用いられる器」とは、何も「信者」のことではなく、「偽教師」であることがわかりました。

 

一つの聖句でも、自己都合的な印象のまま思い描いてしまうと、ちょっとまずいなぁ、ということわかります。が、心象風景としては、はやり、バイブルナビさんの解説とお勧めが私的にはドンピシャなのでありました。

 

「この程度でいいやぁ」なんて、自分を甘やかさないようにとは、然り、ですね。💦

 

求めるなら、惜しみなく与えたもう神の「最高」「最善」を求めなさい、とのお勧め。

そうですね。

神さまのダイナミックさを矮小化してはもったいないですね。💦

 

それに、「罪とその結果」が妨げる人生航路。

これって、よくわかります。えーん・・。

 

若く血気盛んな時ほど、

結局 道草、回り道、障害物競争のコースをなぜか掴んでしまう。なぜなんでしょう・・。

 

そうではなくて、

若いときこそ、賢く生きる選択の術を知るべきなのだと、もう遅いのですが、やはり、そう思います。

人生航路の道は後戻りできぬ狭路の一方通行でありますゆえに。

 

「汝若きときに汝の造り主を覚えよ」

とは、その御心の道に従う術も身に着けよ、ということなのですよね、きっと。

 

すでに老いたる者は、もう若くない者は、では、どのような道が残されているのかな・・・なんてことしきりに考えてしまう。

 

それでも、

いつでもどこでも

神さまの「み言葉」と

主イエスさまの御心に

触れる機会が与えられていますこと、

大、大、大、大感謝するのみです。

 

イエスさま

ありがとうございます。

 

尊き主イエスの御名を崇めて

感謝いたします。

ハレルヤ

おねがい

 

「聖句雑感」