<新共同訳>
【主の栄光】
34雲は臨在の幕屋を覆い、主の栄光が幕屋に満ちた。35モーセは臨在の幕屋に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。
36雲が幕屋を離れて昇ると、イスラエルの人々は出発した。旅路にあるときはいつもそうした。
37雲が離れて昇らないときは、離れて昇る日まで、彼らは出発しなかった。
38旅路にあるときはいつも、昼は主の雲が幕屋の上にあり、夜は雲の中に火が現れて、イスラエルの家のすべての人に見えたからである。
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引用します。
※新実用聖書注解230p※
出エジプトの時以来イスラエルを導き、イスラエルと共にあったヤハウェの臨在は、今、幕屋にとどまることとなった。シナイに顕現したヤハウェは、今からは幕屋を住まいとされる。
シナイにおいて、ヤハウェの許しがなければそばに寄れなかったように、いま幕屋には主の栄光と雲が満ち、主の招きがなければモーセも中に入ることは出来ない(35)。この表現は、近付きがたさを表すのではなく、臨在の確かさを示すものである。
36-38節は、幕屋をご自身の住いとされたヤハウェが、その後イスラエルを幕屋と共に導かれることを確認する。こうして出エジプト記は、ヤハウェがご自身の民を導いてエジプトから連れ出し、ご自身の民となし、その住みかに導かれることをテーマとした書であることを明らかにしたのである。
(アーメン)
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※BIBLEnavi100p※
--40:34--
幕屋は、地上における神の家だった。神がそこをご自身の栄光、すなわち神がそこにおられるという圧倒されるような感覚で満たされた。
およそ500年後、ソロモンは、礼拝の中心地として幕屋の代わりに神殿を築いた。神は、この神殿も栄光で満たされた(Ⅱ歴代5:13、14)。しかしイスラエルが神に背いたので、主の栄光と臨在は神殿から去り、神殿は軍隊の侵入により破壊された(Ⅱ列王25章)。
神殿は前515年に再建された。そしてその500年ほど後、神の子イエス・キリストが、その神殿に入り、教えを語ったとき、神の栄光がより輝きを増して戻ってきた。イエスが十字架にかけられたとき、神の栄光は再び神殿を去った。
しかし、イエスが死から復活した後、神にとって物理的な建物は必要なくなった。神の神殿とは、神の教会、信者たちのからだなのである。
--40:38--
イスラエル人たちは、かつて、わらを与えられずに煉瓦を作らなければならない、エジプトの奴隷だった。ここでは彼らは、雲の柱と火の柱に従っていて、彼らが神のために建てた幕屋を運んでいたのだ。
出エジプト記は、暗闇で始まって、栄光で終わる。
このことは、クリスチャンの人生を通しての私たちの歩みと類似している。私たちは、罪の奴隷として始まり、神によって買い戻され、旅を終えて、神とともに永遠に生きる。
イスラエル人が学んだ訓戒を、私たちも学ぶべきである。
(アーメン)
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<clay>解説
〔シャカイナグローリー〕
「幕屋に満ちる主の栄光」
エジプト脱出以来、イスラエルの民と共にあった【主】の臨在は、ついに幕屋の中に宿った。
「そのとき、雲は会見の天幕をおおい、【主】の栄光が幕屋に満ちた。モーセは会見の天幕に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、【主】の栄光が幕屋に満ちていたからである」。
(1)神の約束通りのことが起こった。神は、完成した幕屋を認定し、その幕屋をご自身の宿りの場とされた。
(2)雲が幕屋を覆った。エジプトを出た直後からイスラエルの民を導いた雲の柱が、形を変えて幕屋の上に臨在した。これまでシナイ山を覆っていた雲が地上に下り、幕屋を覆ったのである。
(3)【主】の栄光が幕屋に満ちた。これは、幕屋の中(聖所と至聖所)に満ちた超自然の輝きであり、人間が直視することのできない光である。
(4)モーセは幕屋に入ることができなかった。彼は至聖所に入り、契約の箱の位置を確認したばかりであった。また聖所にいて、机、燭台、香の壇の位置を確認したばかりであった。
幕屋は、もしシャカイナグローリーが宿らないなら、ただの天幕に過ぎない。
それと同じように、もし神と出会わないなら、聖書は単なる本で終わる。しかし、信仰をもって読み始めると、聖書は単なる本ではなく、神のことばであることが分かるようになる。
出エジプトの出来事の目的は、イスラエルの民が神を知ることにあった。
神を体験的に知らなければ、約束の地は祝福の地とはならない。
「民を導く雲」
「イスラエル人は、旅路にある間、いつも雲が幕屋から上ったときに旅立った。雲が上らないと、上る日まで、旅立たなかった。イスラエル全家の者は旅路にある間、昼は【主】の雲が幕屋の上に、夜は雲の中に火があるのを、いつも見ていたからである」。
(1)雲がイスラエルの民を導いた。昼の雲は、方向性を示し、日陰を提供した。夜の火は、同じく方向性を示し、野獣から宿営を守った。
(2)イスラエルの民の責務は、雲を見上げ、それに従うことであった。
新約時代に生きる私たちには、主イエスから目を離さないようにという勧めが与えられている。
「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました」(ヘブ12:2)。
今、主イエスを見上げよう。主イエスから目を離さないで、地上生涯を全うしよう。
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<clay>きょうの祈り
イエス・キリストの父なる神さま。主イエスは神の栄光の現れです。今私は、主イエスに信仰の目を注ぎます。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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年間聖書通読
エゼキエル書44~45、
詩篇83 ~ 84
本日も配信ありがとうございました。
m(_ _)m
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9月4日(日)☁☔強風
25.8℃/75%(除湿稼働中)
「出エジプト記」。
モーセさんなかりせば。
導く人なかりせば。
「指導者」なかりせば。
そんなこと思いました。
出エジプト記は、暗闇で始まって、栄光で終わる。
このことは、クリスチャンの人生を通しての私たちの歩みと類似している。
私たちは、罪の奴隷として始まり、神によって買い戻され、旅を終えて、神とともに永遠に生きる。
(アーメン)
今、聖書は「ヨハネの黙示録」で終わっている。
最近のものでも約2000年前以上の記述を日々読み続ける。
なんだか、不思議に感じます。
科学技術の進化にともない
時代はどんどん目みはるほどの未知の世界へと向かっている。
考えてみれば、はや2000年前に、主イエスさまはすでに、壁と通り抜けていた。瞬間移動し、空中へと上って行った。いまだ、重力から解放されない私達にはまったく未知の世界。されど
SFの世界がどんどん現実になっていく現代。近未来は私たちの想像をはるかにこえた新人類の登場もあり得るのだろう。でもそれは、神さまの約束したもう"贖われた体”とは全くの異物なのだろう。思います。どんなに時代遅れで、どんくさいと思われようが、「聖書」の神は、天地の創造主。被造物は創造主を超えられるわけがありません。神さまの約束された「体」こそ、最高の贈り物にちがいないのです。
「神」を見失った人類に、「神」を教えるために、選ばれたアブラハムの子孫たち。その道行きは数千年という時をかけてなおいまだ続いている。もっとさかのぼればアダムとイブ。
気の遠くなるような時間と数え切れない人々の誕生。地上の歴史に介入されていく神。
もし神と出会わないなら、聖書は単なる本で終わる。しかし、信仰をもって読み始めると、聖書は単なる本ではなく、神のことばであることが分かるようになる。
出エジプトの出来事の目的は、イスラエルの民が神を知ることにあった。神を体験的に知らなければ、約束の地は祝福の地とはならない。
(アーメン)
神さまの本来の目的に目が開けますように。
まちがった認識が正されていきますように。
ハレルヤ
主イエスの御名が崇められますように。
ちょっとまた
収拾のつかない雑感でした。