出エジプト記38:9~20「幕屋を囲む庭」<神に近づく順序>・・聖書を横に読む | 聖書と私とコーヒーと+ワン

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~「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ14:6)~

この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を
あなたがたに与えることができます。(Ⅱテモテ3:15)

 

<新共同訳>

幕屋を囲む庭

9彼は庭を造り、庭の南側亜麻のより糸で織った長さ百アンマの幔幕を張った。10そのために、二十本の柱二十個の台座青銅で作り、柱の鉤と桁で作った。

 

11北側にも、長さ百アンマの幔幕を張り、二十本の柱と二十個の台座青銅で、柱の鉤と桁は銀で作った。

 

12西側には五十アンマの幔幕を張り、十本の柱と十個の台座を作り、柱の鉤と桁は銀で作った。

 

13東側の幅も五十アンマとし、14十五アンマの幔幕三本の柱と三個の台座によってに、15同じく、十五アンマの幔幕三本の柱と三個の台座によってに張った。それらは、庭の門の両側に置いた。

 

16庭の周囲の幔幕すべて亜麻のより糸で織った。

17柱の台座は青銅柱の鉤と桁は銀柱頭は銀で覆われ、庭の柱はすべて銀の桁でつなぎ合わされていた

 

18庭の入り口には、青、紫、緋色の毛糸、および亜麻のより糸で織ったつづれ織り長さ二十アンマ高さあるいは幅五アンマの幕を張り、庭の幔幕に合うようにした。

 

19四本の柱と四個の台座青銅で、鉤は銀、その柱頭と桁は銀で覆った。

 

20幕屋と庭の周囲の杭はすべて青銅で作った。

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引用します。

(引用文のカラー線と太字は私的都合です💦)

2. 幕屋の庭(囲い)とその象徴的意味

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【聖書箇所】出エジプト記27章9~18節

ベレーシート

出エジプト記25章から27章には、幕屋建造の指示が記されています。その順序は幕屋の最も聖なる所にある「契約の箱」から始まり、幕屋を囲んでいる外枠へと及んでいます。この順序は神へのいけにえでも同様です。五つのいけにえのうちの最も重要な「全焼のいけにえ」から始まって「罪過のいけにえ」へと説明がなされていきますが、私たちが神に近づくためには、神の順序の反対からです

 

幕屋では囲い全体の東の門から入り、そして(祭司、大祭司を通してですが)至聖所へと至ります

ささげものも「罪過のいけにえ」から始まり「全焼のいけにえ」へと進みます

●ここでは、幕屋全体を囲っている枠を聖書は「」(「ハーツェールחָצֵר)と記しています。それとその象徴的意味について考えてみたいと思います。
 

1. 長さ100キュビト、幅50キュビトからなる幕屋の枠

画像の説明
この図は100キュビトと50キュビトを分かりやすくするために描かれていますが、実際は異なります。
 

●幕屋の構造の枠となる長さと幅は、それぞれ100キュビト、50キュビトで、その比率は2:1です。

 

長さの単位である「キュビト」と訳された原語は「アンマー」(אַמָּה)です。1アンマは腕の肘から手の中指までの長さですが、その長さの解釈には幅があります。短いアンマは45.6cm長いアンマは53.2cmです。その中間の長さ(平均値)を取ると49.4cmつまり約50cmと考えることができます

 

したがって幕屋の長さは約50m、幅25mとみなすことができます。そして高さは5キュビトの2.5mです。

 

その周囲は亜麻布で囲まれていました。だれでも容易に囲い越しに中を見ることはできない高さです。この高さと布によって幕屋の内側は、門を通って入らない限り、外から覗くことはできなかったのです

●この囲いで仕切られる内側を、幕屋の「庭」と言います。門を通ってこの「庭」の中に入ることにより、神と人との交わりが可能とされます

 

ですから、人がこの枠の内側にいるのか、外側にいるのかが神とのかかわりにおいてきわめて重要なことなのです

マタイの福音書1章23節に、処女マリヤから生まれる男の子の名は、イザヤが預言した「インマヌエル」と呼ばれるとあります。正確には、「インマーヌー・エール」(עִמָּנוּ אֵל)で、「神が私たちとおられる」という意味です。

 

これをヨハネの福音書1章14節では「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた(幕屋を張った=「シャーハン・ベトーヘーヌー」שָׁכַן בְּתוֹכֵנוּ)と表現しています

 

このことが神の永遠のヴィジョンの究極的な目的ですそれは、神の家(「ベート」בֵּית)を建てる(「バーナー」בָּנָה)ことを意味します

 

そのためには、神の御子(「ベーンבֵּן)がこの世に来て(「ボーבּוֹא)、人と共に住むために結婚し(「バーアルבָּעַל)なければなりません

 

それを実現するのは神のひとり子(長子)(「バルבַּר)です

 

以上のように、太文字のすべてにヘブル文字の「バイト」(בּ)が使われているのは、神の秘密です。
 

2. 幕屋を長さと幅の数字的意味

「五千⼈の給⾷」の奇蹟にある「五つのパンと⼆匹の⿂」は有名です。貧しいながらも、それを主に差し出すことで奇蹟的な神のみわざがなされるという意味で解釈されることが多い箇所です。こうしたメッセージは、教会の会堂建設や何かのプロジェクトを進める場合の励ましのメッセージとしては都合の良い解釈です。各⾃の賜物を活かし合うことで予想をはるかに超えた神のわざを⾒ることがしばしばあるからです。確かにそうしたメッセージは聖書の中にあることも事実ですから、間違ってはいないと思います。しかし、この奇蹟を「御国の福⾳」という視点から⾒るならば、また別の解釈が可能なのです

【新改訳改訂第3版】

マルコの福音書6章38~44節
38 するとイエスは彼らに言われた。「パンはどれぐらいありますか。行って見て来なさい。」彼らは確かめて言った。「五つです。それと魚が二匹です。」
39 イエスは、みなを、それぞれ組にして青草の上にすわらせるよう、弟子たちにお命じになった。
40 そこで人々は、百人、五十人と固まって席に着いた。
41 するとイエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて祝福を求め、パンを裂き、人々に配るように弟子たちに与えられた。また、二匹の魚もみなに分けられた。
42 人々はみな、食べて満腹した。
43 そして、パン切れを十二のかごにいっぱい取り集め、魚の残りも取り集めた。
44 パンを食べたのは、男が五千人であった。

●おそらく、上記の聖書の箇所であまり関心を抱かない部分があるとすれば、それは40節の「そこで人々は、百人、五十人と固まって席に着いた。」という部分ではないかと思います。なぜ「百人、五十人」なのでしょうか。たとえ「パンを食べたのは、男が五千人であった」ということを了解したとしても、「百」と「五十」の数そしてその「2対1」という比率をもって「それぞれ組にして青草の上にすわらせ」たという意味幕屋について学んだことのない人にとっては全く分からないはずです

この「五千人の給食」の奇蹟は、イェシュアと幕屋が一つであることを示唆しているのですつまり「神が人とともに住む」という御国の福音を、イェシュアが奇蹟という形でデモンストレーションしようとした出来事なのです

●福音書には「五千人の給食」だけでなく、四千人の給食」の奇蹟も記されています。なぜ、似たような奇蹟をわざわざ記しているのでしょうかその必要性はどこにあるのでしょうか

 

それは、「五千人の給食」はメシア王国についてであり、「四千人の給食」は「永遠の御国における福音」、つまり最終的な「神の幕屋が人とともにある」(黙示録21:3)という「新しいエルサレム」の啓示であるからです

 

「新しいエルサレム」は幕屋の最も聖なる部分である「至聖所」を啓示しているのです

 

詳しくは、

「ヘブル・ミドゥラーシュ例会(第三回)」の中の「「五千人の給食」と「四千人の給食」に見る「御国の福音」のヴィジョン」を参照のこと。

●このように、

モーセの幕屋を学ぶことの必要性は、神の御子イェシュアがこの世に来られて語った教え、あるいは、行なった奇蹟と深く結びついていることを理解するためです

別の言い方をするならば、

「モーセの幕屋」を学ぶことは、聖書を「ヘブル的視点から新しく読み直す」ことになると言えるのです

 

●今日、一般的傾向として、ペンテコステ系の教会では幕屋について語られることが比較的多いように思います。しかし、福音派と言われる教会では、ほとんど幕屋について(説教や聖書研究で)語られることが少ないように思います。そのために、聖書全体における旧約と新約を結ぶ神の緻密なご計画について知ることの脆弱性があるのは否めません。つまり、聖書を横に読んでいないということです。そのために聖書を鳥瞰的に理解することにおいて弱いのです。教会学校の教案誌を見るならば、それは一目瞭然です。神のご計画は神の歴史の中に啓示されているにもかかわらず大人も子どもも聖書を横に教えられていないために聖書全体が一つに繋がってこないのですそれに対する解決の鍵は「ヘブル的視点」から、あるいは「御国の福音」の視点から聖書を読み直すことにあると信じます次世代における教会を考えるならば、これは緊急を要する、きわめて重要な課題と言えるのです

2016.1.22

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<clay>解説

幕屋の庭

幕屋の庭(出27:9~19の成就)

この箇所にも、命令と成就の関係がある。幕屋の庭の制作は、出エジプト27:9 〜19 で命じられていたが、この箇所はその成就である。

 

幕屋の庭は、亜麻布の掛け幕で囲われた空間であるその空間が、荒野の中での「聖なる空間」となった。かつて筆者も、原寸大の幕屋の模型の中に立ったことがあるが、幕で囲われた中庭は、外部から遮断された厳粛な空間だと感じた。

 

中庭の広さは、東西が44.5m、南北が22.3m で、総面積は約990 平米(約300 坪)である


幕屋の庭を造るための掛け幕は、「イスラエルの民を異邦人から区別する」という役割を果たした幕屋全体が、神が聖であることを教える視聴覚教育になっていたことを思い出そう。

 

幕屋を通し、いけにえの動物を通し、また祭司たちを通して、イスラエルの民は神が聖であることを学んだ。また、聖と俗とを混同することは許されないということも学んだ。それは、罪人はそのままの姿では神のもとに出ることができないということでもある。

 

神に近づくためには、神が用意された方法によらなければならない幕屋は、そのことをイスラエルの民に教えた。そして私たちも、そこから教訓を学ぶことができる。

私たちへの教訓

旧約聖書では、幕屋は罪人が神に近づくための唯一の方法であった新約聖書では、別の方法(幕屋が予表していた方法)が啓示された

 

それは、聖なる神が罪人のいる所まで下ってくださり和解の道を開いてくださった、というものである。使徒パウロは、このように語っている。

すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。…神の和解を受け入れなさい」(2 コリ5:19 〜20)。


イエス・キリストは、すべての人が神に近づくことのできる道を開いてくださった

 

その神の和解を受け入れる人は、幸いである

その人は、恵みと信仰によって救われる

その人は、神の子であり、クリスチャンである

 

イエス・キリストを通して神との平和を得ていることを感謝しようではないか

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(30日、スーパーの駐車場で舞っていた蝶々)

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<clay>きょうの祈り

イエス・キリストの父なる神さま。私のために和解の道を開いてくださったことを感謝します主イエスが私の罪のために死んでくださったことを信じます。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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年間聖書通読

エゼキエル書32~33、

エペソ人への手紙3

 

本日も配信ありがとうございました。

m(_ _)m

 

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8月31日(水)☀のち☁時々雨

27.5℃/48%

 

台風11号近づく。

瞬間最大風速75M級。

これは危ない。

迷走している台風とも聞く。

どうか、それてほしいものです。

 

台風接近、と聞くだけで

ズンと疲れがきてしまいます。

💦

 

横転事故を経験して以来、

台風をなめなくなりました。

(-.-)

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今回の解説で、驚きは、

五千人の給食=メシア王国、

四千人の給食=新しいエルサレム。

御国の福音のビジョンが隠されていた。

 

そして、

イェシュアの語ったことばと

イェシュアの行った業(奇跡)は

モーセの「幕屋」と深く結びついている。

 

イエス・キリスト=モーセの幕屋。

 

神が人となった、ということは

そういうこと、なのですね。

 

「2:1」の比率?

 

ヨハネ書の153匹の魚の数、も

不思議でした。

 

「数字」に隠されている真理。

 

この世は、まさに

「数字」で動くデジタル世界へと

どんどん進んで行っています。

 

もちろん、ここには

「邪悪」も入り込むのでしょう。

 

されど、

「7」が神の数なれば

それに満たない「6」でしか

対抗できない「邪・悪・俗」。

 

神の完全数は

神の聖さと完璧さ以外は

なにものをも寄せ付けない

そんな絶対的権威があるのだな、

きっと。

 

そう思うと、

なぜか、肩の力も抜けてきて

ああハレルヤと

最高の神の御名をほめたたえたく

なりました。

 

そんなこと

思った夕べです。

 

ハレルヤ

主イエスの御名に感謝せん。

おねがい