<文語訳>
1茲にエホバ、モーセに言ひ給ひけるは汝石の板二枚を前のごとくに斫りて作れ 汝が碎きし彼の前の板にありし言を我その板に書さん
2詰朝までに準備をなし 朝の中にシナイ山に上り 山の巓に於て吾前に立て
3誰も汝とともに上るべからず 又誰も山の中に居るべからず 又その山の前にて羊や牛を牧ふべからず
4モーセすなはち石の板二枚を前のごとくに斫りて造り 朝早く起きて手に二枚の石の板をとりエホバの命じ給ひしごとくにシナイ山にのぼりゆけり
5エホバ雲の中にありて降り 彼とともに其処に立ちてエホバの名を宣べ給ふ
6エホバすなはち彼の前を過ぎて宣べ給はく エホバ、エホバ 憐憫あり恩恵あり怒ることの遅く恩恵と眞實の大なる神
7恩恵を千代までも施し惡と咎と罪とを赦す者 又罰すべき者をば必ず赦すことをせず父の罪を子に報い子の子に報いて三 四代におよぼす者
8モーセ急ぎ地に躬をかがめて拝し
9言ひけるは エホバよ 我もし汝の目の前に恩を得たらば願はくは 主 我等の中にいまして行き給へ 是は項の強き民なればなり 我等の惡と罪を赦し我等を汝の所有となし給へ
*********************************
<clay>解説
〔神の栄光の啓示(3)〕
「新約聖書における神の栄光の啓示」
ここで、新約聖書における神の栄光の啓示について学んでみよう。
(1)人間が作る神概念には、以下のようなものがある。人間の有限な知性で考えるので、当然不十分であったり、間違っていたりする。
①無神論者は、神はいないと考えている。彼らは、主観的な思い込みを、まるで証明された事実であるかのように考えている。
②偶像礼拝者は、偶像礼拝が悪いとは思っていない。また、偶像礼拝の本質が、実は「人間の貪欲」であることに思い至らない。
③クリスチャンでさえも、自分の神概念を作り上げている場合がある。その人たちは、聖書を学ぶことに興味を示さない。
(2)出エジプト記が書かれた目的(啓示された目的)は、【主】を知ることにある。
①モーセ一人がそれを理解し始めている。彼とイスラエルの民の間には、深い隔たりがある。
②幕屋は、【主】を知るための恵みの手段として与えられた。
③クリスチャン生活の目的もまた、【主】を知ることにある。
(3)新約聖書における神の栄光の啓示は、イエス・キリストである。
①ヨハネ1:14 には、こうある。
「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた」。
イエスの肉体という幕屋に、シャカイナグローリーが宿ったのである。これが受肉の真理である。
②ヨハネ14:9 には、こうある。
「イエスは彼に言われた。『ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか」。
③コロサイ1:27 には、こうある。
「神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです」
私たちの内には、キリストが住んでおられる。
キリストは、私たちの「栄光の望み」である。
罪の赦し(義認)、
人格の清め(聖化)、
栄光の姿に変えられること(栄化)、
このすべてがキリストにあって可能となる。
自力で励むのではなく、キリストに信頼を置く歩みを続けようではないか。
*********************************
~~~~~~~~~~~~~~
<clay>きょうの祈り
イエス・キリストの父なる神さま。私は、キリストにあって義とされ、清められ、栄光の姿に変えられます。自力で励む信仰生活ではなく、キリストにあって歩む信仰生活を送らせてください。キリストこそ、「栄光の望み」です。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
**********************************
年間聖書通読
エゼキエル書4~5、
コリント人への手紙 第二12
本日も配信ありがとうございました。
m(_ _)m
~~~~~~~~~~~~~
8月21日(日)☀(^.^)
26.8℃/63%
朝4時に猫ちゃんが鳴く。
ルーチンになってきそうだ💦
最近ちょっと夜更かし気味で
床についたと思ったらもう
猫ちゃんの鳴き声である。
無視するわけにもいかず。
キツイきついゾォ・・。
されど、さすがの猫ちゃんも
私の異変にしかめつら。
何をしてあげればいいのやら
どんな遊びも すぐに飽きてしまう。
ほんと、何をしてあげればよいのやら。
でも、よく食べてくれているから
一安心かな。
ただただ、どうしたって、
彼女との緊密な接触は避けねばならぬ。
彼女に安心感を与えるにはどうすればいいのだろう。
日々悩んでしまう この頃でアリマス。
*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*
「キリストは私たちの『栄光の望み』」
アーメン
イエスさま なかりせば
私は 何のために生きているのかわからない。
それでも、
追っても追ってもつかみ取れない気がする。
御言葉の実践以外、
真の自由は勝ち取れないのだろう。
御言葉を聞く、御言葉を知る。
あとは、日々の実践以外ないのです。
されど、
「私」が 「イエス」を「主イエス」と
告白することができるのは もはや
「私」ではない ように思えます。
「イエス」を「主イエス」と
呼ばせてくださる「神さま」は
「私」の「神さま」となってくださった。
ありがたいです。
わたしの信仰の始まりは、
まず、
「主イエスの復活を信じた」
ところからはじまりました。
信じる以外にないことを知ると
目から鱗が落ちるように
すべての屁理屈も
無きに等しくなってしまいました。
信仰の「初め」を思い出すとき
あの瞬間の喜びは
幾年月を経ても 新鮮そのものなのです。
あの 感動だけは 未だに
鮮明さをもって思い出されるのです。
多分、イエスさまを信じるに至った方は
それぞれに そんな体験をお持ちなのでしょう。
やはり、あれは、
「自力」ではないように思います。
求めよ。さらば与えられん。
さがせよ。さらば見出さん。
門を叩け。さらば開かれん。
求め続ける思いにこそ
主がひろってくださるもの、
主が応えてくださるもの。
すなわち、「忍耐」をもって
求め続けていこうではないか、と
また、勇気を頂く。
尊き主イエスの御名に感謝せん。
ハレルヤ
主よ憐れみ給え。