<新共同訳>
【金の子牛】(8)
30翌日になって、モーセは民に言った。
「お前たちは大きな罪を犯した。今、わたしは主のもとに上って行く。あるいは、お前たちの罪のために贖いができるかもしれない。」
31モーセは主のもとに戻って言った。
「ああ、この民は大きな罪を犯し、金の神を造りました。32今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば・・。もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください。」
33主はモーセに言われた。
「わたしに罪を犯した者はだれでも、わたしの書から消し去る。34しかし今、わたしがあなたに告げた所にこの民を導いて行きなさい。見よ、わたしの使いがあなたに先立って行く。しかし、わたしの裁きの日に、わたしは彼らをその罪のゆえに罰する。」
35主は民がアロンに若い雄牛を造らせたので、民を打たれたのである。
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引用します。
※新実用聖書注解225p※
<抜粋>
続く30-35節は、モーセの第2のとりなしの場面である。この中でモーセは<あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください>(32)と願う。愛の極みである。
しかし、単なる人は民のために贖いとして自分の命をささげることは出来ない。また、たとい赦しがあっても、当然の報いは逃れられないことも明らかにされる。
ヤハウェは更に、前に行く<使い>(34)について語られた。これまでヤハウェは絶えず臨在の保証を与え続けられたが、今は「使い」だけが約束される。ただしう約束の土地への旅が取り消しになったのではない。
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<clay>解説
〔モーセの嘆願〕
「モーセの決意」
「翌日になって、モーセは民に言った。『あなたがたは大きな罪を犯した。それで今、私は【主】のところに上って行く。たぶんあなたがたの罪のために贖うことができるでしょう』」。
(1)モーセは、当面の処置は終わったと判断し、【主】は次に何を求めておられるのかを確かめようとした。
(2)「あなたがたの罪のために贖うことができるでしょう」とは、身代わりの死を決意した言葉である。モーセは、民の罪が赦されるなら、自らが死んでもいいと思ったのである。
「【主】への言葉」
モーセは【主】に向かってこう語った。
「ああ、この民は大きな罪を犯してしまいました。自分たちのために金の神を造ったのです。今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら──。しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください」。
(1)彼は、民の罪を認めている。
(2)その上で、民の罪が赦されるために、自分のいのちを差し出している。
「【主】からの言葉」
「わたしに罪を犯した者はだれであれ、わたしの書物から消し去ろう。しかし、今は行って、わたしがあなたに告げた場所に、民を導け。見よ。わたしの使いが、あなたの前を行く。わたしのさばきの日にわたしが彼らの罪をさばく」。
(1)裁きは、神の主権によって行われる。それゆえ、今はカナンの地に民を導け、というのである。カナンの地は、神がアブラハムに約束した地である。
(2)「わたしの使いが、あなたの前を行く」とあるが、この使いとは被造物の天使であって、メシアではない(出23:20 の「使い」はメシアであった)。つまり神は、民と共に上らないとの結論を出されたのである(33:3 〜 4 参照)。
(3)かくして、裁きは延期された。時が来たなら、裁きが行われるのである。35 節の言葉、「【主】は民を打たれた」は、将来の裁きを示したものである。
モーセの自己犠牲の祈りは、ユダの祈りを彷彿とさせる(創44:33)。さらに、パウロの祈りにも似ている(ロマ9:1 〜 3)。これらの自己犠牲の祈りは、主イエスの十字架上の祈りに通じるものがある(ルカ23:34)。
私たちも、友のためにいのちを捨てる愛を学ぼう。
「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません」(ヨハ15:13)
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<clay>きょうの祈り
イエス・キリストの父なる神さま。主イエスの自己犠牲の愛を感謝します。その愛のゆえに、私は赦され、救われました。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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年間聖書通読
エレミヤ書44~45、
コリント人への手紙 第二8
本日も配信ありがとうございました。
m(_ _)m
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8月11日(木)快晴☀(^.^)
25.9℃/61%(エアコン稼働中)
「自己犠牲の祈り」
「友のために己の命を捨てる」
とてもハードルが高いです。
なかなかできないし、
思いも及びません。
友のために祈ることはできても
友のために己が命を捨てる?
考えてみれば、わたしには
はばからずして「友」と呼べる、
そんなお付き合いは
ないような気もします。
「大切」に思う人はいても
自分の命と差し替えるなんてこと
考えたこともありません。
考えたくないといったところが本音でしょう。
どうしたら
そのような「心」になれるのでしょう。
イエスさまを見倣う、と豪語しても
何一つイエスさまに倣うことができません。
されど、
イエスさまの「平安」が
我らのものなれば、
イエスさまのお力を借りれば
火事場の力?的な
最大級の勇気を頂けるのかな。
この「命」が
主イエスさまに保証されている。
この「命」は主イエスさまのもの。
そんな
絶対的な確信によって
人は 思ってもみないほどの
信仰の高根へと引きあがられるのかな。
主イエスさまへの絶対的な信頼。
ただこれ一つさえ得られれば
なんと生きやすくなるだろう・・。
波間にゆれる落ち葉のごとく
行っては戻るを繰り返す。
でも、聖書に登場する人々は
皆いちように「揺らいで」いる。
揺らぎつつ揺らぎつつ
「確信」を得
信仰の高根へと引きあげられている。
ただ一つ、
神への愛と
それを求める心が失われない限り、
きっとそれは可能だ。
やっぱり、
どんなことがあっても
主イエスさまによって示された
神さまを、求め続ける。
知恵も知識も足らざるとも
啓示を得ざるとも
ただ一つ
「我は道なり真理なり命なり」と
宣う方に
必死でしがみついていきたい
とこそ願う。
願わくは、残るわずかな生涯
わが持てる分にて
この真理の証しの与えられんことを。
受けたものが
現実となって
跳ね返って来ますように。
その不思議を見させ給え。
木はその実によって知らる。
アーメン
尊き主イエスの御名を崇めて
感謝いたします。
ハレルヤ
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