<新共同訳>
【金の子牛】(5)
15モーセが身を翻して山を下るとき、二枚の掟の板が彼の手にあり、板には文字が書かれていた。その両面に、表にも裏にも文字が書かれていた。16その板は神御自身が作られ、筆跡も神御自身のものであり、板に彫り刻まれていた。
17ヨシュアが民のどよめく声を聞いて、モーセに、「宿営で戦いの声がします」と言うと、18モーセは言った。「これは勝利の叫びでも 敗戦の叫びでもない。わたしが聞くのは歌をうたう声だ。」
19宿営に近づくと、彼は若い雄牛の像と踊りを見た。モーセは激しく怒って、手に持っていた板を投げつけ、山のふもとで砕いた。20そして、彼らが造った若い雄牛の像を取って火で焼き、それを粉々に砕いて水の上にまき散らし、イスラエルの人々に飲ませた。
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引用します。
※新実用聖書注解225p※
<抜粋>
15-16節は、山を下りるモーセが携えた2枚の<あかしの板>(15)について多くの情報を提供する。板の両面には字が書かれていた。それは神が直接書かれたので<神の字>(16)と呼ばれた。
17-20節は、モーセ自身がふもとで行われていることを確認し、怒りを抑えることが出来なかった様子を描く。<板>(19)は投げ捨てられ、砕かれた。これはヤハウェとイスラエルの契約が破れたことを表している。
像を<火で焼き><粉々に砕き><水の上にまき散ら>(20)すという一連の行為は、偶像が破壊される時の定型的表現であると言われる。
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※BIBLEnavi96p※
--32:19,20--
騒々しい偶像崇拝と、お祭り騒ぎを実際に目にすることによって、苦しみと怒りが込み上げてきたモーセは、人々の行動や心の中ではすでにバラバラにされていた、10のことばの書かれた石の板を壊した。
そこには、正義の怒りがあった。しかしモーセがどれほど怒っていたにせよ、神の怒りはそれ以上だった。神は民をすべて殺したいとまで思われたのだ。
罪に対する怒りは、霊的ないのちのしるしでもある。この種の怒りを押し殺してはならない。しかし、罪に対して正当に怒っている場合でも、後に後悔するような行動に出ないよう注意すべきである。
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<clay>解説
〔怒りを覚えるモーセ〕
「二枚のあかしの板」
とりなしの祈りを終えたモーセは、2 枚の石板を持って山を降りる。この石板は、「あかしの板」と呼ばれた。
(1)板の両面に文字が書かれていた。恐らく、同じ文字が書かれた石板が2 枚用意されたのであろう。契約の当事者がそれぞれ1 枚を保管するというイメージがそこにある。
(2)この石板は、神の作であったと書かれている。つまり、十戒は神の手によって書かれたシナイ契約の条項だということである。
「ヨシュアの判断とモーセの判断」
モーセは、山の中腹まで降りて来た。
(1)そこに留まっていたヨシュアは、山頂での神とモーセの会話を聞いてはいない。また、麓で起こっていることについても無知である。
(2)ヨシュアは、民の叫ぶ声を聞いて、彼なりの判断を下した。「宿営の中にいくさの声がします」。その意味は、敵の声なのか味方の声なのかは分からないが、ときの声がする、ということである。彼には、こんな重要な時に自分が民と共にいなかったのは残念である、との思いもあったことだろう。
(3)しかしモーセは、「それは勝利を叫ぶ声ではなく、敗北を嘆く声でもない。私の聞くのは、歌を歌う声である」と応じた。
「モーセの怒り」
金の子牛の周りで民が踊っているのを見て、モーセの怒りは燃え上がった。
(1)彼は謙遜な人であったが(民12:3)、湧き上がって来る怒りを押さえることはできなかった。時には、私たちもまた義のために怒る必要がある。
(2)モーセは、2 枚の板を山の麓で砕いた。これは怒りの表現だが、シナイ契約が破棄されたことをも示している。
(3)モーセの怒りは、次の4 つのステップで表現された。
①金の子牛を火で焼いた。
②それを粉々に砕いた。
③それを水の上にまき散らした。
④それをイスラエル人に飲ませた。全員にではなく、首謀者たちに飲ませたのであろう。人間の体内を通過することによって、金の子牛は汚れたものとなる。
モーセとヨシュアの霊的洞察力の違いに目を留めよう。
モーセは、神との対話を通して、何が起こっているかを理解していた。
しかし、ヨシュアにはその理解はなかった。両者の霊的洞察力の差が、ここに出ている。
ヨシュアは、モーセの振る舞いを見て多くの教訓を学ぶ必要があった。
私たちも、自分の経験によってものごとを判断するのではなく、神から与えられる洞察力を用いて日々の課題に取り組めるように、祈ろう。
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<clay>きょうの祈り
天の父なる神さま。どうか私に、体験の枠を乗り越えた霊的洞察力を与えてください。ものごとの本質をつかむ力を与えてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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年間聖書通読
エレミヤ書38~39、
詩篇65 ~ 66
本日も配信ありがとうございます。
m(_ _)m
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8月7日(日)☀(^.^)
27℃/67%
昨日は、
安息日の会堂礼拝の場に
出ることができましたから
感謝します。
(会堂に活けられたお花デス)
いつものとおり、
神さまには申しわけないのですが、
1時間遅れの出席をさせて頂きました。
頌栄、祝祷を受けられましたから感謝です。
また、座っている時間も約1時間強。
体の負担にはなりません。
お若い男性の先生が講壇に立たれていました。
いつもの通り大きなお声です。
ちょっと私的に耳への許容量オーバーで、かえって聞きづらくもあり、ですが、とても大切なことを述べられていらっしゃいました。とくに、この時期ですから、少し油断すれば、心の隙間に偶像が忍び込むのでしょう。故人を偲ぶ、ということにも、日本的な文化風習に潜むものに気をつけなくてはならないことを注意なさっていたように思います。
遠慮なさりながらですが、
伝道の書を開き読まれたところが印象的でした。
わたしの魂はなお
尋ね求めて見出さなかった。
千人に一人という男はいたが
千人に一人として、
良い女は見出さなかった。
(コヘレトの言葉 7章28節 新共同訳)
我なほ尋ねて得ざるは是なり
我千人の中には一箇の男子を得たれども
その数の中には一箇の女子をも得ざるなり
(伝道の書7章28節 文語訳)
これはどういう意味なのでしょう。
講壇に立たれているお若い男性の「牧師」の方は、何を言わんとなさったのでしょうか。
(何分にも途中出席。前後の脈絡がつかめませぬ・・)
愛用する解説書でこの箇所を紐解いてみましょう。
※新実用聖書注解907p※
正しい人を探し求めたが、男では千人のうちに1人しか見いだせなかった。つまり、ほとんど不可能に近いということである。
<ひとりの女も見いださなかった>(28)は、男女は僅差であるが、男のほうがわずかに勝っているという意味である。26節の「女はわなであり―-」という思想がここにも反映している。
古代のユダヤ人社会では男性の方が女性よりも優位を占めていた。
著者の最終的結論は、<神は人を正しい者に造られた>(29)のに、人間は罪を犯して神に反逆したため、神を認めず、自分の納得のいく<理屈>を求めた。しかし、それはすべて失敗だったという意味が込められている。
<理屈>(「ヘ」ヒッシャ―ボーンの複数形)は「道理」(「ヘ」ヘシュボーン)と同じ語に由来し、色々な考えや思想を意味している。
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※BIBLEnavi600p※
--7:27,28--
ソロモンは、女性には道理(知恵と正しさ)が見出されないと考えたのだろうか。そうではない。
なぜなら、箴言の書の中で、ソロモンは知恵を、信頼できる女性として擬人化しているからだ。
ソロモンのことばの要点は、女性は知恵がないということではなく、神の前には男性であれ、女性であれ正しい者はいないということである。
彼の文化において女性は宗教教育を受けず、男性は受けていたにもかかわらず、ソロモンは調べていく中で、正しさと知恵は女性だけでなく男性にもほとんど見られないということに気づいた。
実際には、この節は、「私は神の御前に知恵のある者を1,000人に1人しか見出さなかった。いや、それより少ない人数しか見出さなかった」と言っているのだ。
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※クレイ聖書解説コレクション「伝道の書」58p※
(1)コヘレトは、理想的な友人を求め続けた結果、大いに失望します。千人の人たちと交流した結果、ようやく理想に近い人物をひとりだけ見出したというのです。
(2)しかし、知恵を語り合うにふさわしい女は、ひとりもいなかったと断じます。
(3)コヘレトの女性蔑視の言葉は、今の私たちの感覚とはかけ離れています。私たちの場合は、聖書的価値観に基づいて、男女が等しい価値を持っていると確信しているからです。
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ウ~~ン💦
どうでしょう。
私的には、
「新実用聖書注解」的な解釈がしっくりきます。
女性蔑視、ではないですが、
創造の順序を思うのです。
まず、神さまは、「アダム」を造られました。
それが、すべてのような気がします。
でも、人間って、
創造の最後に造られたのですヨネ・・。
昨日、ぼ~~としながら、
「羊飼い」・・?と思いました。
わたし、ペットの猫ちゃんと
一日中向き合うのですら無理です。
以前、ワンちゃんたちのお散歩につきあうのも限界を感じます。
彼らは、「話せません」。
彼らに、人間と同等のものなど求めようもありません。
「羊飼い」というお仕事。
ダビデさんもそのお仕事でした。
一日中、つきっきり。
よき草地をみつけて「さぁ、はめよ」と解放しても、いつどこで狂暴な獣が飛び出してくるかわからない。羊一匹のために命をかけるのです。彼らの食事のため、水飲みのため、休息のため、日々、羊たちのことのために消耗される「自分自身」。話す相手もいません。
ふと、思いめぐらします。
わたしだったら、人生が無意味に思えてきそうなお仕事に思えてしまいました。
多分、神さまも、ただ、地とそのすべての生き物の管理をゆだねられたが、たった一人の人間「アダム」に同情?なさったから、あとから彼にふさわしき相手「エバ」をお造りになった?。
ともに分かち合える「存在」として。
だから、「エバ」は決して、「アダム」に劣るものではなく、「アダム」のよき理解者、助け手となったハズだと思えます。
「アダム」と同じ感覚を共有し、同じ言葉を話した。
されど、「エバ」は、「誘惑」に勝てなかった。最初に「罪」を犯してしまいました。そして、「アダム」をもその罪に巻き込みました。もちろん、「アダム」の弱さも見逃せませんが、運命共同体となる選択をした?
そして、その後、二人は責任のなすりあい、となるわけです。
されど、創造の順序として、「アダム」は最初に造られた「人」なのです。「男」です。
イエスさまも「男」。
十二弟子達も「男」。
イエスさまは、男性たちに「教会」をゆだねられた。
イエスさまに従った女性たちも数多くいました。
そのうちの一人、ベタニヤのマリアの悟りは稀なるものがありました。また、復活後のイエスさまが最初に姿をお見せになったのもマグダラのマリアでした。
「救い」に優劣はありませんけれど、
神さまが示される「秩序」には 歴然と
守るべき「境界」点があるようにも思われます。
これらを 各人のうちで
謙虚に捉えつつ
その恵みの賜物に応じて
互いに与えあい
誰も誰にも誇ることなく
ただ主に栄光を帰すことができるように
互いに仕えあうことができるように
そんな交わりが見えてきそうな気もします。
ちょっと長くなりました。
今回も 思うがままに書き連ね、
あっちとびこっちとびになった気がしますが、
このまま送信です。
昨日集った集会で
御言葉一つ頂いて
このように紐解いてみる機会を得ました。
感謝でした。
(教会の駐車場から東の海をのぞむ)
どうか、
主の名による集会、その
「礼拝」を尊ぶことができますように。
主の喜ばれる「礼拝」に集わせてくださいますように。
心から願います。
尊き主イエスの聖名によって
感謝せん。
ハレルヤ