<新共同訳>
【安息日を厳守せよ】
12主はモーセに言われた。
13あなたは、イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。
あなたたちは、わたしの安息日を守らねばならない。それは、代々にわたってわたしとあなたたちとの間のしるしであり、わたしがあなたたちを聖別する主であることを知るためのものである。
14安息日を守りなさい。
それは、あなたたちにとって聖なる日である。
それを汚す者は必ず死刑に処せられる。
だれでもこの日に仕事をする者は、民の中から断たれる。
15六日の間は仕事をすることができるが、七日目は、主の聖なる、最も厳かな安息日である。
だれでも安息日に仕事をする者は必ず死刑に処せられる。
16イスラエルの人人は安息日を守り、それを代々にわたって永遠の契約としなさい。
17これは、永遠にわたしとイスラエルの人々との間のしるしである。主は六日の間に天地を創造し、七日目に御業をやめて憩われたからである。
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引用します。
※新実用聖書注解223p※
p. 安息日に関する指示(31:12-18)
聖所に関する指示の最後に、安息日の戒めが繰り返される(→20:8-11注解、6+1構造)。
聖所と安息日の関係は、礼拝と安息日の関係にほかならない。
また、聖所の建設といいう大事業が始まろうという時にこの戒めに言及されたのは、たとい聖所の仕事であっても仕事は仕事であり、6日の間働き、7日目はみな仕事を休まなければならないことを示すためである。
安息日は、ヤハウェとイスラエルの間の<代々にわた>(16)るしるしであると言われる。神がイスラエルをご自身の特別なものとして聖別されたことのしるしである。ヤハウェの特別な臨在が、イスラエルを特別な民とした。イスラエルの民は、代々にわたり、安息日を守り、それによって主の臨在を確かなものとし続けることが出来る。
安息日は神とイスラエルの間の<永遠の契約>(16)であると言われる。(略)
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<clay>解説
〔安息日〕
「シナイ契約のしるし」
今モーセは、シナイ山の山頂で、神から幕屋建設に関する指示を受けている。この箇所では、安息日の規定が再確認される。つまり、幕屋を建設している間も、安息日は守らねばならない。
「あなたはイスラエル人に告げて言え。あなたがたは、必ずわたしの安息を守らなければならない。これは、代々にわたり、わたしとあなたがたとの間のしるし、わたしがあなたがたを聖別する【主】であることを、あなたがたが知るためのものなのである」。
(1)安息日は、シナイ契約のしるしである。
ノア契約のしるしは虹、アブラハム契約のしるしは割礼である。それと同じように、シナイ契約のしるしは、安息日である。
(2)安息日の規定が与えられた目的は、3 つある。
①イスラエルの民を聖別するためである。
聖別とは、俗世界(神に反抗するこの世)からの分離である。イスラエルの民は、安息日が来るたびに、自らの選びと使命を思い出すのである。安息日の規定は、やがて離散の地に住むようになるユダヤ人たちを守ることになる。
②安息日の第2 の目的は、神の性質を教えるためである。
「これは、永遠に、わたしとイスラエル人との間のしるしである。それは【主】が六日間に天と地とを造り、七日目に休み、いこわれたからである」。
③第3 の目的は、イスラエルの民の信仰を育てるためである。
安息日に休息することは、神がすべての必要を満たしてくださると信じることである。
「厳格な規定」
安息日の規定が、幕屋建設という文脈の中で与えられていることに注目しよう。
(1)幕屋建設の間も、安息日には休まなければならない。これは特権であり、恵みである。
(2)「この安息中に仕事をする者は、だれでも、その民から断ち切られる」とあるが、この規定は常に実行することを想定したものではない。これは、律法の時代の始まりに当たって、神に反抗するなら死しかないことを教える厳粛な規定である。
(3)新約時代においては、アナニヤとサッピラの罪(使5:1 〜11)が裁かれている。彼らの死は、恵みの時代の始まりに当たって、聖霊を欺く罪がいかに恐ろしいものであるかを弟子たちに教えた。
新約時代に生きる私たちには、モーセの律法(安息日の規定)は適用されない。
安息日は、キリストを信じた人が経験する霊的状態の型である。それを教えているのが、ヘブル人への手紙4 章である。
私たちは、キリストにあって神の平安(安息)を得ている。そのことを感謝しよう。
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<clay>きょうの祈り
天の父よ。あなたの恵みを軽んじることのないように私を助けてください。あなたへの反抗が深刻な罪であることを、常に思い起こさせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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年間聖書通読
エレミヤ書26~27、詩篇63 ~ 64
本日も配信ありがとうございました。
m(_ _)m
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8月3日(水)薄☁?
室温26.3℃
(中断)
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8月4日(木)快晴☀(^_^)
28℃/42%(エアコン稼働中)
昨日、在東京の姉妹から電話がありました。
「マンゴー」が届いたということでした。
今年の沖縄マンゴーは出来がいいと聞きました。
ちょっと時期遅れの配送となりましたが、
それでも 無事届いてよかったです。
私自身は「マンゴー」を試食していません。
スーパーにもここぞとばかりの陳列です。
価格を見るとちょっと私的には手をだしづらく、
結局、どんなお味なのかわかりません。
食べてくれた人が「美味しい」と
思ってくださればそれで幸いです。
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「安息日」。
これは、イスラエルの人々に与えられた掟。
それは、彼らを聖別するため。
「安息日」を通して「神」のご性質を示すため。
「安息日」の「定め」は無効になったのか?
わたしは、よくわかりません。
ただ、経験的に教えられてきたものがあります。
それら数々を振り返る時、
けっして無視できないものを思います。
普段、普通に過ごせていること
それこそが「守り」の内にあることに気がつかされます。
普段、「普通」であるからこそ
つい 「特定な日」の在り方も つい 軽んじてしまう。
軽んじた結果「おこった」ことによって気がつかされる。
あえて、「そこ」と結びつけなくてもいいではないの、と人は言うかもしれない。されど、「そこ」と結びつけることができるかどうかが「信仰」の分かれ目となっていくのだろうとも思える。
どの「日」を重んじるかどうかは、「自由」かもしれない。
その「自由」によって、われ(ら)は、「安息日」を尊び重んじる選択をする。その「選択」の結果は、「見事」なのだと言わざるをえない。もちろん、どのように重んじるかは試行錯誤なのだろう。
神は仰った。
わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではなく、神を知ることであって、焼く尽くす献げ物ではない。
(ホセア6:6)
イザヤ書1章の句はとてもキツイ。
形式的には完璧に見えることも
神はその「内」を見透かしている。
お前たちのささげる多くのいけにえが、
わたしにとって何になろうか、と主は言われる。
雄羊や肥えた獣の脂肪の献げ物に、
わたしは飽いた。
雄牛、小羊、雄山羊の血をわたしは喜ばない。
こうしてわたしの顔を仰ぎ見に来るが、
誰がお前たちにこれらのものを求めたか
わたしの庭を踏み荒らす者よ。
むなしい献げ物を再び持って来るな。
香の煙はわたしの忌み嫌うもの。
新月祭、安息日、祝祭など
災いを伴う集いにわたしは耐ええない。
お前たちの新月祭や、
定められた日の祭りを
わたしは憎んでやまない。
それはわたしにとって、
重荷でしかない。
それを担うのに疲れ果てた。
お前たちが手を広げて祈っても
わたしは目を覆う。
どれほど祈りを繰り返しても
決して聞かない。
お前たちの血にまみれた手を
洗って、清くせよ。
悪い行いをわたしの目の前から取り除け。
悪を行うことをやめ
善を行うことを学び
裁きをどこまでも実行して
搾取する者を懲らし
孤児の権利を守り
やもめの訴えを弁護せよ。
論じ合おうではないか、
と主は言われる。
たとえ、
お前たちの罪が緋のようでも
雪のように白くなることができる。
たとえ、
紅のようであっても
羊の毛のようになることができる。
お前たちが進んで従うなら
大地の実りを食べることができる。
かたくなに背くなら、剣の餌食になる。
主の口がこう宣言される。
とても厳しいお言葉が並びます。
されど、幸いなるかな。
最後には慰めを与えています。
かならず「希望」が残される。
「お前たちが手を広げて祈っても、わたしは目を覆う。」
と言われたら
「どれほど祈りを繰り返しても、決して聞かない」
と言われたら
なんという絶望だろう。
されど、
そのもろもろの【主】の忌み嫌うもの
悪しき習慣や惰性、軽はずみな侮り、
それらもろもろの悪を断って
進んで【主】に従うのなら
「大地の実りを食べることができる」。
そんな約束をしてくれてます。
緋のような罪も雪のように白くなり、
紅のような汚れも羊の毛のように真っ新にされる。
わたし(たち)にはいつでも
【主】に立ち返る機会が与えられている。
イエスさまの忍耐に
ありがとうございます。
ハレルヤ
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どうか
「機会」を軽んじることのないように
わたしの心をあらためさせてくださいますように。
尊き主イエスの御名に感謝せん。
ハレルヤ!

