「果実味溢れる酸味と甘さ」・・<ウォッシュド製法飲み比べ> | 聖書と私とコーヒーと+ワン

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~「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ14:6)~

この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を
あなたがたに与えることができます。(Ⅱテモテ3:15)

今回も頂きました。

「ROKUMEI COFFEE」

 

今回のセットは

「ウオッシュド製法」のコーヒー飲み比べ” 

だそうです。

 

過ぎた木曜日の晩に、

妹から久しぶりの電話。

 

スタバでドライブスルーしよう!

とのお誘い。

そのまま夜の南部半島巡りとなりました。

久しぶりのドライブも

夜、夜中となれば景色も見えず。

されど、あきらかに街並みは

われらが青春の頃とは違ってきています。

 

「コヒー豆届けるから」と

なぜかこのごろの妹は定期的に

「ロクメイコーヒー」をくれるのです。

とてもありがたいです。

 

正直、「ロクメイコーヒー」、

飲みたいなぁ、と思っていたので

大変 嬉しかったのでアリマシタ。

 

(連日、コヒーを頂いて感謝ですラブ

今年いっぱいこれでもつ?かなぁ。)

 

ドライブの最後らへんで

衝撃的なニュース。

彼女はこれを言いたかったのかな。

と 思いました。

 

どの「家族」にも「波乱」含みな季節は

きっとやってくる。

 

そんなこんなに関係なく

美味しいコーヒーを届けてくれる

妹には 感謝です。

 

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今回の飲み比べ。3種。

こんなお品書きです。

 

エルサルバドル サンタローザ--パカマラ ウォッシュド

爽やかな風味に、しっかりとした甘さ

カップオブエクセレンス(コーヒーの品質を競う品評会)で3度優勝を果たし、2019年の優勝ロットはロクメイコーヒーで単独落札をした、私たちにとっても想い入れの深い農園。

 

私たちの目指す味わいである「甘さ」「質感(口当たり)」「クリーン(雑味がない)」、そのすべてが素晴らしいコーヒーです

 

オランジェットのようなやさしい口当たり甘さの中に、シロップ漬けをした、オレンジのような風味が楽しめます

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グアテマラ アンティグア --ブエナビスタ ビジャサルチ

バランスが良く、スッキリと飲みやすいコーヒー

グアテマラ・アンティグアは2つの火山に囲まれた盆地で、火山灰質の豊かな土壌が広がり、山から吹きつける冷涼な空気が昼夜寒暖差を生み出します。このような自然条件をもつグァテマラにおいて、最初にコーヒー栽培が始まった伝統から、アンティグアコーヒーは古くから最高品質コーヒーの代名詞でした。

 

中煎りまで焼き上げることで、チョコレートの様なコクと甘さの中にウォッシュドらしい爽やかさが楽しめます

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飛火野ブレンド

心穏やかになるような、まろやかな味わい

奈良の夏の夜の風物詩と言えば、奈良公園の飛火野から眺める大文字焼き。煩悩の焼却や清浄心を意味する「大」の字が浮かぶ奈良の夜の風景は、心穏やかな気持ちにさせてくれます。

そんな奈良の夏の夜をイメージした飛火野ブレンドは、まろやかで柔らかな口当りの心地よいコーヒー

 

チョコレートのような甘さの中に感じる赤いベリーのような果実味が、夜空に浮かぶ赤い大文字炎を連想させてくれます。

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「奈良」といえば

「京都」とともに

私達の頃は修学旅行の定番コースでした。

とても懐かしい気がします。

 

「奈良」にはその時以来足を運ぶことがありません。

「大文字」焼き?

「京都」と「奈良」には似たような風習があるのですネ。

 

「仏教」に根ざした季節の風物詩でしょうか?

ウィキペディア検索してみました。

大文字焼きとは、「大」の字を象った文字を松明の炎で描く行事に対し一部で使用される俗称。お盆の時期に彼岸へ祖先の霊を送る送り火として行われることが多く、代表格である京都の五山送り火をはじめとして、実際には「~焼き」という呼称は使われていない。

現在、催しの名称として「大文字焼き」を採用しているのは、関東周辺の一部地域に限られる。

山肌は不安定であり、消防署への負荷も避けるため、大文字をLED照明に置き換えた事例が存在する。

行事が行われる地域には

・奈良県奈良市・神奈川県箱根町・静岡県三島市・山梨県笛吹市・秋田県大館市・高知県四万十市・京都府福知山市・大阪府池田市・栃木県佐野市・岩手県平泉町

などが挙げられていました。

多分これらの所は「仏教」文化が盛んなところ?なのでしょうか?

 

「宗教」にはそれぞれの「良さ」があるのですが、

どうにも、相容れない「もの」も歴然としてあるのは事実。

 

日本は 伝来のものを「ミックス」して独自の文化風習に根付かせ、「排他」するよりも「とりこむ」ことで融和させてきたように思います。けれど、こと「キリスト(教)」に関しては、伝統的なこれらのものとの「ミックス」は不可能です。

 

そう思うと、「キリスト(教)」は 古来より皆が大切に大事にしてきたものを「破壊」するようなものに捉えられても仕方のないような気に、私的には、なります。一部「カトリック」は土着文化との融合も可とするようですが、本来の「キリスト(教)」からは、見事はずれてしまっているといえましょう。

 

「キリスト者」にとって

主イエスが、「ダメ」と仰るものは「ダメ」なのです。

 

色の三原色「赤」「緑」「青」。

基本、それらを混ぜると「黒」になる?

「赤」が「赤」ではなくなり、

「青」も「青」ではなくなる。?

 

同じ様に、

一つ一つの真理も

まぜこぜにしてしまうと

結局 塗りつぶされていくように

見えなくなっていくのでしょう。

 

 

人間が魂の叫びとして求めて来たもの

それが数々の「宗教」の根本であるなら、

やがて、ようやく

それら雑多なもののもろもろが淘汰されていき、

やがて「ほんもの」が姿を現すときがくる。

 

そんな日の

とても待ち遠しいことですけど、

 

数千年の時を経て

人々が 心に良しと感じ

祖先より受け継がれてきたものも

たしかに われらには捨てがたく

どこか どうしても懐かしむ。

 

そんな心の風景を

きっと 神さまはご存知。

 

すべての善きものに心を留めなさいとは

「聖書」にもあることば。

 

善が善を生み出すように

すべての良きもの、

美しいもの、

尊ぶべきもの、

真実なものから得られるものは

きっと喜ばしき実を結ぶのかもしれませんネ。

 

「真実」を見る目が

養われていけますようにと

願うのみです。

おねがい