ここ数日、
どうにもこうにも
スッキリしない精神状態。
日本はカルト国家?
そう言われてもおかしくないほど。
物凄く失望している。
「日本」というものに。
「自由民主党」と言うブランド。
その象徴たる「安倍晋三」元総理。
彼は、「瓶の蓋」だった。
自民党の「55年体制」というもの
よくわかりませんでした。
政治なんてわからない。
それでよかった時代は、
終わったかもしれない。
今回の事件によって
いろいろ表に出てきた問題。
そういえば、
「田中角栄」さんの失脚は
何だったのだろう。
政治と金の問題はずっと指摘されてきたこと。
たしかに「政治」には「金」がいるし、「票」がいる。
「宗教」とは
人がよりよく生きたいとの願いに
応えるものではないの?
「木はその実によって知られる」
良い木か否か。実をみれば明らか。
献金というものは、
「人」が恵まれた中から感謝をもって献げるもの。
されど、唯一の神、聖書の神はこうおっしゃる。
十分の一の献げ物をすべて倉に運び
わたしの家に食物があるようにせよ。
これによって、わたしを試してみよと
万軍の主は言われる。
必ず、わたしはあなたたちのために
天の窓を開き
祝福を限りなく注ぐであろう。
(旧約聖書マラキ書3:10 新共同訳)
神への献げ物は、「祝福」だと教えています。
「天の窓を開き、祝福を限りなく注ぐ」との神からの約束です。
聖書の神は嘘つきではありません。
この「献金」は唯一、「人」が神を試せる方法でもあります。
それほどの「もの」です。
神を侮ってはいけません。その「献金」を侮ってはいけません。
「献金」は「神」への「礼拝」です。
そして、献金する者は「期待」してよいのです。
「神さま」からの応答を。「人」でもなく何ものからでもない「神さま」からの応答です。「わたし」と「神」との親密な関わりの始まりです。他のだれにも共有できない関わりの始まり。
献金をして「破産」する、なんて言語道断。
ありえません。これは神の御心ではありません。
世で生きる以上、事業の失敗、おもわぬ解雇、怪我や災難にもあいましょう。されど、自らが破産するまで「献金」させる「神さま」がどこにおりましょうか?
悩みの時の「神」なのです。
「金も銀もわがもの」とおっしゃる創造主。
十分の一。それは神さまのもの。
わたしたちは「献金」と呼びますが、
それは、もともと神さまのもの。
ですから神さまへお返しするもの。
それ以上でもそれ以下でもない。
人それぞれの信仰に応じて「献金」するとき、神がその「信仰」に応えてくださる。だから、「信仰」をもって献げるとき、あれよあれよと神さまのしるし不思議を体験させてくださるのです。
「信仰」の目をもたなければ見る事ができない世界です。
神さまの世界はいかにもダイナミックなのです。
「信仰」をして、なぜ「破産」するのか?
たとえある人がまちがって「破産」に至ったとしても、正しい信仰が与えられているならば、また、そういう正しい教えの所に所属しているのなら、神はそこから必ずや、また立ち上がらせてくださるはずです。神さまの「恵み」を侮ってはいけないのです。人生には「お金」だけでは計り知れない財産がいくつも用意されているはずです。
「身近」にいる他者の「幸福」を願う方法をあやまってはいけないのでしょう。また、自らが「幸福」になる方法もまちがえてはいけない。
いったい、何が、「人」をまちがった方向へと向かわせるのだろうか。
狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。
しかし、命に通ずる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見出す者は少ない。
(マタイ7:13-14 新共同訳)
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人生は七転び八起。
神に従う人は七度倒れても起き上がる。
神に逆らう者は災難に遭えばつまずく。
(箴言24:16 新共同訳)
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TVでも報道された、
日本人を貶める思想に立つ宗教団体。
日本人が古来より持つ民間信仰の在り方。
その信仰的土台に上手く入り込んだ手腕はお見事。
「原理研究会」「印鑑」「手相」、然り。
私も若い頃 勧誘を受け接触しました。
とくに「原理研究会」は
一時かじった程度ですら
凄く納得した記憶があります。
現実レベルで理解可能な論理。
(深いりしないでよかったです。)
「弱さ」を覚えるとき
人はついつい脇が甘くなります。
頼れるものに頼りたくなる。
「弱さ」の中にあって
「識別」することは困難かもしれません。
されど、何か違和感を感じているはずなのです。
その信号に無頓着にならず、
それにまさる「真理」の所在を諦めないでほしい。
まず、「キリスト教」と名のつく団体。
いっぱいあります。
近付くものを予防するのは難しいかもしれません。
まずは、「キリスト教」に興味をもたれたら、
お近くの「書店」で 一般的な「聖書」を購入し自ら読んでみる方がよいのだと思います。
「聖書」はなんと言っているのか。
この「聖書」一冊以外に頼る術はありません。
「キリスト」を知りたいと思ったら、
まず、「聖書」を読むことから始めないと始まりません。
あなたがたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。
(マタイ6:6 新共同訳)
神さまは、「あなた」だけ、
「わたし」だけとの交わりを
求めていらっしゃることがわかります。
そこから得るものは大きい。
神さまだけに知られている場所。
わからないならわからないなりに、
一筋の光、それも「あなただけ」「わたしだけ」に注がれる「光」が突如としてやってきます。実に不思議なことです。
だから、求めてほしい。
「キリスト」を求めているがまだ出会っていないという方がいるのなら、諦めず、求めていってほしい。
「イエス」さまが、どのような方かを知れば、あまたある「キリスト」の名をかたるエセ教団にひっかかることなどないと信じたいです。
たしかに、地上にある「キリスト教会」自体、完璧ではなく、まだまだ完成の途上にあるのだと思えます。が これだけは的をはずしてはならないという「真理」は示されていて、いたってシンプルなものです。
求める者の心に「キリスト」が入って来てくださる瞬間、その瞬間は必ずやってきます。
「人」ではなく「上」より、
「あなた」「わたし」が独り、
真実の神さまを求めて向き合う時
それはやってくる。
孤独な作業ですが、
一度、まわりの「騒音」を遮断する所に身を置いて、
神さまと自分との時間をもたれて頂きたい。
おのが境遇への恨みつらみ。
幼少期、思春期のトラウマ。
極貧であるがゆえの苦痛。
失われたものへの無念。
社会秩序の不条理。
まとわりつくこれらのものを
一度横に置いて、
「人」は「神」に似せて造られた存在であることを、今一度 確認し、覚えたい。
祈る。
天にまします主イエスよ。
混沌として惑わされ続けているわたしたち。
どうか 光の道を見出し、歩ませてください。
踏みにじられても踏み砕かれても
わたし(たち)は 立ち上がります。
立ち上がらんともだえるさまを
主よ、ごらんください。
われ(ら)は あなたの御力によって
立ち上がることができます。
どうか あなたに寄りすがる力を与えてください。
最後の最後まで
あなたに寄りすがって勝利を得させてください。
すべての善きものは あなたから来ます。
あなたこそ真実であり道であり命であるからです。
わたし(たち)に
なおなお
真実の道、真理の道、命の道を示し給え。
常に喜び絶えず祈り
すべてのこと感謝させ給え。
尊き主イエスの御名によりて祈ります。
アーメン
主イエスさま
日本国を守り給え。