出エジプト記19:10~14「祭司聖別の儀式②」・・贖罪の献げ物・・<愛の配達人> | 聖書と私とコーヒーと+ワン

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~「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ14:6)~

この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を
あなたがたに与えることができます。(Ⅱテモテ3:15)

 

<新共同訳>

祭司聖別の儀式】(2)

次に、アロンとその子らの任職式を行う。

 

10まず、雄牛臨在の幕屋の前に引いて来る。

アロンとその子らは手を雄牛の頭に置く

11あなたはそれを主の御前臨在の幕屋の入り口で屠る

 

12次いで、雄牛の血器に取りその一部を指で祭壇の四隅の角に塗り血は全部祭壇の基に流す

 

13次に、内蔵を覆っているすべての脂肪肝臓の尾状葉二つの腎臓それに付着する脂肪を取って、祭壇で燃やして煙にする

 

14雄牛の肉胃の中身宿営の外で焼き捨てる

 

これが贖罪の献げ物である

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引用します。

 

※新実用聖書注解222p※

j. 祭司の聖別と任職(29:1-46)

<抜粋>

10-14節は、任職の雄牛罪の贖いのためにいけにえとせよとの命令である(→レビ4章注解)。

 

<雄牛の頭に手を置く>(10)のは、罪の転嫁の象徴である。

 

血はすべて、ヤハウェを象徴する祭壇に塗り、かつ注がれる(12)

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(新聖書辞典551p)

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※BIBLEnavi93p※

--29:10-41--

ささげ物について詳細が記されているのは自分勝手な礼拝をしないよう異教徒カナン人の影響を受けないようしっかりと標準を定めておくためだった

 

神の指示に従いさえすればヘブル人は不道徳な宗教実践することはない

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<clay>解説

雄牛のいけにえ(1)

罪のためのいけにえ

この箇所から、順次、用意された動物がほふられて行く。最初は雄牛のいけにえであるが、これは「罪のためのいけにえ」である。


(1)アロンとその子らは雄牛の頭に手を置く

 

「あなたが、雄牛を会見の天幕の前に近づけたなら、アロンとその子らがその雄牛の頭に手を置く」

 

これは、

「罪の転嫁」を象徴する行為である

 

つまり、大祭司アロンとその子らの罪が、雄牛の上に転嫁されているのである。

 

転嫁は、罪の赦しを考える際に重要な概念である

 

(2)次に、この雄牛を

 

「あなたは、会見の天幕の入口で、【主】の前に、その雄牛をほふり、 その雄牛の血を取り、あなたの指でこれを祭壇の角につける。その血はみな祭壇の土台に注がなければならない」

 

屠られた雄牛の血を取り、指で祭壇の角に付ける祭壇の角とは、祭壇の四隅に出ている突起物である。これで祭壇の清めが終わった。

次に、残りの血を祭壇の土台に注ぐ

 

(3)雄牛の内臓の脂肪は焼いて煙にする。

「その内臓をおおうすべての脂肪、肝臓の小葉、二つの腎臓と、その上の脂肪を取り、これらを祭壇の上で焼いて煙にする」

 

脂肪は最良の部位とされていた脂肪は神に捧げる部位で、最高のものを神に捧げる

 

(4)「ただし、その雄牛の肉と皮と汚物とは、宿営の外で火で焼かなければならない」

 

肉と皮と汚物は、宿営の外で焼かれた

肉と皮と汚物は、汚れたものの象徴である。

 

また、「これは、罪のためのいけにえである」とは、アロンとその子らの罪を贖うためのいけにえであるという意味である。大祭司と祭司もまた、罪の贖いを必要としていた

 

 

 

罪のための転嫁

パウロは、キリストの犠牲についてこう書いている。

 

神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされましたそれは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです」(2 コリ5:21)。

 

この聖句が教えていることは私たちの罪が「罪を知らない方(キリスト)」に転嫁されたということである

 

その結果、私たちの罪が取り除かれ、父なる神との和解が成立した

 

この祝福を自分のものとするためにはキリストを自らの救い主として受け入れこの方に対する信頼を表明する必要がある

 

今、信仰によって罪の赦しを受けていることに感謝すると同時にまだ救われていない人たちに、神の愛を伝えよう

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<clay>きょうの祈り

イエス・キリストの父なる神さま。キリストにあってあなたとの和解ができていることを感謝しますどうか私を、あなたの愛の配達人として用いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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年間聖書通読

イザヤ書62~63、詩篇57 ~ 58

 

本日も配信ありがとうございました。

m(_ _)m

 

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7月16日(土)☀?☁?

27℃/28%(エアコン稼働中)

 

湿度28%?

異様に低い感じです。

ちょっと窓の外をみやると、

何か白い薄もやがはっているような

そんな見慣れない風景でした。

ベランダは濡れていません。

 

よくよく見ると

車道が黒ずんでいますから、

北西からの雨足だったのかな?

 

それでも、耳を澄ませば

蝉さん、鳴いてくれてます。

(^.^)

 

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「屠る」ということば。

「いけにえ」ということば。

 

いまだに慣れません。

 

「生きとし生けるものは・・」

とかいう慣れ親しんだフレーズ。

やさしい響きです。

 

「聖書」には無い世界観だと思います。

 

「創造者」と「被創造物」の世界。

「支配する者」と「支配される者」。

「血」が流される「世界観」。

 

されど、

その中に秘められてある「真の自由」。

 

「神」はひたすらに「聖い」存在だということ。

「あってあるもの」

 

「生きとし生けるものは・・」

ややもすると

アニミズムを生み出す発想?

そんな気もしてきます。

 

「ことば」自体はいいのです。

やさしく響き渡ります。

 

だけど、私的に

そんな世界観は、

「聖書」に出会って、まず最初に

打ち砕かれていきました。

 

日本人には

「キリスト」教はなかなか

受け入れにくいものかもしれませんネ。

 

イスラエルから見ると東の果ての地。

偶像に満ちた国です。

 

昨今は

「キリスト」の名をかたる「宗教」もあまたしれず。

 

「聖書」そのものを教えず、

そればかりか

「聖書」をモチーフにして練りつくられた「教義」が出回る。

「教祖」が「キリスト」「メシア」だと名乗る。

「キリスト」の「まがいもの」。

 

悲しくなりますね。

 

「聖書」はなんと語っているか。

 

「裁き」は「神の家」から始まる、

ともあります。

 

神の御名が貶められ、

神の御計画が歪められて流布されていく。

 

神さまはこのよな状況を

どのように御覧になっているだろう。

 

右か左かの選別は、

厳しいようだけれども始まっている。

 

何をもって

「聖書」の「真実」を証しするか。

何をもって

「聖書」の「救い」を「真実」とするか。

何をもって

「聖書」に預言された「メシア」を証しするか。

 

わたしたちに絶えず突きつけられているようです。

 

「人」に頼ろうとすれば

「人情」によりかかれば

「組織」に逃げ込めば

そして

巧みな「論理」に陶酔すれば

 

仕掛けられた「罠」に捉えられ

沼地に引き込まれた足は

どんどん沈み込んで行く。

 

はまってしまう人と

そうでない人との「差」はなんだろう?

 

だれもが

自分(たち)こそが「正しい」と思っている。

自分たちこそが「正義」だと思う。

 

「聖書」はなんと言っているか。

 

今の時代、「異邦人の時」、

こんなに「聖書」が身近なものとなっている。

ただ、「信仰」なくして読むときの危険をも感じる。

「真実」と「真理」と「救い」、「真の神との出会い」を求めて

ひたすらに「聖書」を読むとき、すべての者の「心」を知り給う方は、その願いに応えてくださるのは確実なのです。

 

「人」によらず、

自分自身の「心」に問うて

自分自身の「心」を見据えて

その「命」のために闘う勇気を得んことを。

 

ちまたには

あまたの「神」と呼ばれるものがある。

 

悲しいかな「人」は

ほおっておけば「悪」への傾向を強くする。

貪欲さを「善」と見まがうほどの傾向。

 

・・・・。

 

なんだか、

しめっぽくなってまいりました。

つらつらと・・。

 

初代キリスト教会は迫害されました。

「迫害」の時代が迫っているのかな

・・・とつい思ってしまいました。

 

悲観的な傾向の私です。

ほんと

常に、イエスさまを見上げて

いくことができますようにと願います。

 

常に喜び絶えず祈り

すべてのこと感謝できますように。

 

尊き主イエスの御名に栄えあれ。

 

イエスさま 憐れみください。

 

ハレルヤおねがい