<新共同訳>
【シナイ山に着く】(4)
10主はモーセに言われた。
「民のところに行き、今日と明日、彼らを聖別し、衣服を洗わせ、11三日目のために準備させなさい。三日目に、民全員の見ている前で、主はシナイ山に降クダられるからである。12民のために周囲に境を設けて、命じなさい。
『山に登らぬよう、また、その境界に触れぬよう注意せよ。山に触れる者は必ず死刑に処せられる。13その人に手を触れずに、石で打ち殺すか、矢で射殺さねばならない。獣であれ、人であれ、生かしておいてはならない。角笛が長く吹き鳴らされるとき、ある人々は山に登ることができる。』」
14モーセは山から民のところに下って行き、民を聖別し、衣服を洗わせ、15民に命じて、「三日目のために準備をしなさい。女に近づいてはならない」と言った。
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引用します。
※新実用聖書注解209p※
10-12節では、モーセは、ヤハウェの顕現に備えるようにとの民への言葉を与えられる。顕現の場所は シナイ山 である。民は 山に近付かないようにし、山に下る聖なるヤハウェに会うために自らを聖別しなければならない。山のふもとでじっとしている期間は2日間であり、3日目には主に会うために山に登らなければならない。
<女に近づいてはならない>(15,レビ15:16-18注解)。
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※BIBLEnavi86p※
--19:9-11--
モーセは人々を聖別するよう神から命じられた。これは、彼らを身体的にも霊的にも神に会うために整えよということを意味していた。
人々は 神に 自らを聖別するために、罪から離れ、日常の普通の行為さえもやめなければならなかった。洗う行為や用意をするという行為によって、彼らの意識と心が準備されていった。
私たちが礼拝するために 神に出会うとき、日々の暮らしの心配や関心は 脇に置くべきである。身体的な準備を、神に会うための意識の準備に用いよう。
(アーメン)
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なぜ「三日目」なのだろう?
私は単純にそう思ったのでした。
逆算して、まる2日の準備期間。
2日間で身も心も整えなさい、ということだったのですね。
衣服を洗う、身を洗う、用意をする、という「行為」によって、
我らの意識が「神」へと向かう。焦点が「神」へと定まっていくことで神の御前に立つ「心」の備えもなされていく。
ふと、新約聖書ヤコブ書(2章)の言葉がよぎりました。
14わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。
15もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、16あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。
17信仰もこれと同じです。
行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。
18しかし、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。
19あなたは「神は唯一だ」と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています。
20ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役に立たない、ということを知りたいのか。
さらに続きます。
24~、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。
26魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。
とても、厳しく感じてしまいますネ。
でも、「真理」なのですネ。
この「ヤコブ書」はクリスチャンにとって
「両刃の剣」かもしれませんね。
解釈を間違えると
大変なことになってしまいますね。
「信仰」と「行い」は表裏一体。
主イエスを信じたものが
主を讃美せざるを得ないように、
「信仰」あるものは、
その「信仰」に基づいて
行わざるを得ないようになっていく、
気が付けば「行っている」ということになるのでしょう。
だから、「行い」について全く心配する必要はないのです。
「行い」はその「内にあるも」に導かれて、自ずと付いて来るのです、きっと。
されど、また、逆も然りで、
「行い」によって、「内なるもの」を呼び覚ますようになることもまた、事実なのだろうと思います。
いずれにしても、
「信仰」より出で、「信仰」に至るものはすべて善かりきかな。
長くなりました。
(雑感)
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<clay>解説
〔イスラエルの聖別〕
「契約締結のための準備」
「【主】はモーセに仰せられた。『あなたは民のところに行き、きょうとあす、彼らを聖別し、自分たちの着物を洗わせよ。彼らは三日目のために用意をせよ。三日目には、【主】が民全体の目の前で、シナイ山に降りて来られるからである』」(10 〜 11 節)。
(1)イスラエルの民は、2 日間かけて自らをきよめる。具体的には、衣服を洗うということである(体を洗うことは文脈上暗示されている)。【主】はイスラエルの民に、内面のきよめを教えるために、外側のきよめを命じられたのである。
(2)さらに、その期間は男女関係も避けるように命じられた(15 節)。
(3)3 日目には、【主】がシナイ山に降りて来られる。「民全体の目の前で」とは、民全体がシャカイナグローリーを目撃するということである。
「シナイ山は聖なる山」
「あなたは民のために、周囲に境を設けて言え。山に登ったり、その境界に触れたりしないように注意しなさい。山に触れる者は、だれでも必ず殺されなければならない。それに手を触れてはならない。触れる者は必ず石で打ち殺されるか、刺し殺される。獣でも、人でも、生かしておいてはならない」(12 〜 13 節)。
(1)シナイ山の周囲に、境を設ける必要性が出て来た。
・なぜなら、シャカイナグローリーのゆえに、シナイ山が聖なる山となったからである。聖と俗とは、この境によって区切られる。
(2)人間も動物も、その境を越えることは許されない。
・汚れたものが聖なる地に足を踏み入れることは、そのまま死を意味した。
(3)角笛の音が長く鳴り響く時、イスラエルの民は山に登らねばならない。
神の栄光に近づこうとするなら、神が指定された方法によらなければならない。
・この箇所では、2 日間かけて身をきよめること、角笛の音が長く鳴り響くのを待って山に登ること、などがそれである。
新約時代に生きる私たちは、別の方法で神に近づく。
(1)私たちは、主イエスの血潮によって罪の赦しときよめを受けた。
(2)今私たちは、イエス・キリストという仲介者を通して父なる神に近づく。
(3)イエス以外の方法を考えることは、「境を越える」ことであり、神の裁きを身に招くことになる。
「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません』」(ヨハ14:6)。
主イエスだけが、罪と死の問題から私たちを解放してくださる。
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イエス・キリストの父なる神さま。主イエスが道であり、真理であり、いのちであることを認めます。今、主イエスを通して栄光の御座に近づきます。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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年間聖書通読
サムエル記第二1~2、使徒の働き4
本日も配信ありがとうございました。
m(_ _)m
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5月11日(水)☁?
さきほど、晴れ間が見えたけど
思いっきりの☁にもどりました。
午前中のいつもの時間、
本日の分のデボーションをタイピング中、
もう少しで終了、というところで、
「フリーズ」(ー_ー)!!
でした・・・。
万事休す。か・・。
こんな時、いつも思ってしまいます。
時間をかえしてくれぃ・・。
されど、
お昼のひと時、
再度 チャレンジです。
(一度気をゆるめたら・・
clayさんにおいつくの大変ですものネ(-_-;))
すると、
なんだか、1回目よりも
頭がクリアに感じました。
私の「頭」ですから
たいしたことはないのですが、
「私」的には、違った感覚なのでした。
だから、
めんどーだぁ。。。と
つぶやいたことも
結局、過ぎて見れば
「感謝」「感謝」「大感謝」
と 喜んでおります。
神さまの「みことば」は
いとも 不思議です。
全く「損」がない、ということですね。
触れれば触れるほどに。
「損」がない、ということなんですね。
不思議であります。
ヤコブ書のみことば。
頂きました。
ハレルヤ感謝。
神の御心にかなった「行い」は
われらに「祝福」をもたらすのですね。
感謝です。
主イエスの御名が崇めて
感謝いたします。
残す時間を
祝福してくださいますように。