出エジプト記18:1~6「エトロのモーセ訪問①」・・アブラハムの子らへの約束 | 聖書と私とコーヒーと+ワン

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~「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ14:6)~

この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を
あなたがたに与えることができます。(Ⅱテモテ3:15)

 

<新共同訳>

エトロのモーセ訪問】(1)

1モーセのしゅうとで、ミディアンの祭司であるエトロは、神がモーセとその民イスラエルのためになされたすべてのこと、すなわち、主がイスラエルをエジプトから導き出されたことを聞いた

 

2モーセのしゅうとエトロは、モーセが先に帰した妻のツィポラと、3二人の息子を連れて来た。

 

一人は、モーセが、「わたしは異国にいる寄留者だ」と言って、ゲルショムと名付け、4もう一人は、「わたしの父の神はわたしの助け、ファラオの剣からわたしを救われた」と言って、エリエゼルと名付けた。

 

5モーセのしゅうとエトロは、モーセの息子たちと妻を連れて荒れ野に行き、神の山に宿営しているモーセのところに行った6彼はモーセに、「あなたのしゅうとであるわたし、エトロがあなたの妻と二人の子供を連れて来た」と伝えると、~

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<clay>解説

イテロの訪問(1)

 

モーセの舅(しゅうと)イテロ

・この箇所は、アマレクとの激闘の後にやって来た静寂の情景である。

 

・イテロという人物について考えてみよう。

 

(1)彼は、出エジプト2:18レウエルと呼ばれていたが、これは固有名詞で、「神の友」という意味である。

彼は、アブラハムの曽孫に当たるアブラハム→イサク→エサウ→レウエルと続く)。

母は、イシュマエルの娘でネバヨテの妹バセマテである(創36:4)。

 

(2)同じ人物出エジプト18:1イテロと呼ばれている。これは地位を表すタイトルで、「卓越した」という意味である。

ミデヤンには王はなく、祭司が首長であったつまり彼は、ミデヤンの祭司で、他国では王のような存在だったということである。

 

(3)イテロがモーセの舅になった経緯は、出エジプト2:16 〜 22 に出ていた。モーセは井戸のそばでイテロの7 人の娘たちを助け、それがきっかけとなって、彼といっしょに住むようになった。彼は、娘のチッポラをモーセに与えた。

 

 

イテロの来訪

・イテロは、神がモーセと御民イスラエルのためになさったすべてのことを聞き、荒野にいたモーセのもとに駆けつけた。

 

(1)彼は、モーセの妻チッポラ、長男ゲルショム、次男エリエゼル(この名はここで初めて登場)を連れて来た。

 

(2)モーセの家族が実家で待機していた理由は、出エジプト4:24 〜 26 に記されていた。

エジプトへの途上、モーセは危篤状態に陥ったモーセが次男に割礼をしていなかったアブラハム契約の条項に違反していた)ので、神は、モーセを殺そうとされた

妻のチッポラは急いで次男に割礼を施しその包皮をモーセの両足(陰部の婉曲語)につけてモーセを死から救った

 

(3)妻のチッポラが割礼を嫌悪しているのを見て、モーセは家族を家に帰したもし不信仰な妻を連れて行くなら、神の御業の妨害になると考えたからである

 

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モーセの判断を心に留めながら、マタイ19:29 と10:37 を思い起こそう。

 

また、わたしの名のために家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた者はすべてその幾倍もを受けまた永遠のいのちを受け継ぎます」。

 

わたしよりも父や母を愛する者わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者わたしにふさわしい者ではありません」。

 

この教えは、実際に両親や家族を憎むということではなく神を第一にするか、人間関係を第一にするかという優先順位の問題である神を第一にするなら、結果的に祝福が下る

(アーメン)

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引用します。

 

※新実用聖書注解207p※

*モーセとイテロの再会

(18:1-12)

 

アブラハムの子孫であるミデヤン(参照 創25:2)の祭司イテロ(→出2:18注解)、及び 彼の娘でモーセの妻チッポラとモーセの再会がこの場所で記されるのは、アブラハムに対する神の約束の実現として意義のあることである。

 

やがてシナイ契約がヤハウェとイスラエルの間に結ばれるがその中にはアブラハムの子らが広く含まれる

 

2-4節の、イテロがモーセの妻と子を連れて来たことは、4:18-20とつながる。ここでは子は2人になっているのが異なる。ゲルショムとエリエゼルという名は、それぞれ出エジプトの経験を通して与えられた信仰の告白である

 

<父の神>(4)という表現は3:6,15:2にも用いられた。それぞれ重要な箇所である。ホレブにおけるヤハウェとの出会いは、新奇なものでなく、先祖の神との出会いであることを示している

 

モーセとイスラエルは、<神の山>(5)に宿営していた

モーセに燃える柴の中から現れた神の顕現と関係する場所である。また後には神とイスラエルが契約を結ぶ所である。

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「アブラハムの子」らへ与えられた神の約束。

「アブラハムの子」となった者らの幸い。

 

我ら(異邦人)もまた、

キリスト・イエスのゆえに

「アブラハムの子」とせられたり。

 

感謝かな。

 

ハレルヤ

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イエス・キリストの父なる神さま。私は、家族を愛するがゆえに、あなたに従うことを優先させますそれが結果的には家族の祝福につながるからです。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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年間聖書通読

サムエル記第一12~13、箴言19

 

本日も配信ありがとうございました。

m(_ _)m

 

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5月1日(日)☁

25℃/49%

 

肌寒いほどです。

今日から雨天らしいものの

まだ雨粒の音は聞こえません。

 

PCを打っている間中、

猫ちゃんは私の周りをウロウロ。

様子をうかがっては

行ったり来たり。

 

しょうがない、と

お古のバスケットに

ブランケットを敷いて

卓上のPCの左横に置きました。

 

トントンとその位置を叩くと

慎重ながらも

待ってましたとばかりに

やってきました。

 

アレルギーを恐れてばかりも

いられないのでありますが、

やはり、私も

オソルオソルなのであります。

 

今朝は、

つけっ放しYouTubeで

目が覚めました。

今年の正月配信された

三者トークでした。

普段なら

私からはアクセスしないもの。

 

聞えてくるままに聞いていたら、

「立花隆」さんのエピソードが

語られていました。

 

人間の寿命と死にまつわる会話です。

 

「死」への捉え方は

三者三様のようでした。

 

「立花隆」さんの最後をお聞きして、

凄い方だな、と思いました。

 

彼の評価はいろいろあるようですが、

彼の著作を手にしてみたくなりました。

 

彼は「末期癌」の治療を

最後まで拒んだとのことでした。

 

「人は誰もが『寿命』まで生きられる」

のだという言葉を残された、といいます。

 

とたんに目が覚めてしまって

発信されたその「言葉」の意味を

洗面所に向かいながら

お湯を沸かしながら

猫ちゃんの毛づくろいしながら

思案しつつ味わっていたのでした。

 

「人は誰もが

寿命まで生きられる」

 

なんという言葉でしょう。

 

ハレルヤ

 

「病は癒さるるべきもの 寿命は神のもの」

アーメン

 

主イエスの御名に栄えあれ

おねがい