出エジプト記6:9~13「信仰が後戻りするとき起こる3つのこと」 | 聖書と私とコーヒーと+ワン

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~「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ14:6)~

この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を
あなたがたに与えることができます。(Ⅱテモテ3:15)

 

<新共同訳>

モーセの使命(3)

9モーセは、そのとおりイスラエルの人々に語った。

彼らは厳しい重労働のため意欲を失って、モーセの言うことを聞こうとはしなかった

 

10主はモーセに仰せになった。

11「エジプトの王ファラオのもとに行って、イスラエルの人々を国から去らせるように説得しなさい。」

12モーセは主に訴えた

御覧のとおり、イスラエルの人々でさえわたしに聞こうとしないのに、どうしてファラオが脣に割礼のないわたしの言うことを聞くでしょうか。」

 

13主はモーセとアロンに語って、イスラエルの人々とエジプトの王ファラオにかかわる命令を与えられた。 それは、イスラエルの人々をエジプトの国から導き出せというものであった。

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「重労働のため意欲を失って」

とあります。

 

わたし(たち)日本人は、

「労働」を「美徳」として教えられて育ちます。

正当な「労働」から得る報いは大きい。

 

「意欲」を失わせるほどの「労働」。

絶望感が漂います。

機械の一部のように、

支配と監視と虐待の中で

日々消費されるだけの生涯に

なんの希望を見出すことができましょうか。

 

モーセさんの

脣に割礼のないわたし

という表現が印象的でした。

 

人の口から発せられる「ことば」も

聖い(清い、潔い)ものであるべきなんだな

と思わされました。

 

モーセさんは、

現状に立ちはだかる壁に

うろたえるばかり?

 

されど、神の命令は、

その始め、

モーセさんを召命したときから一貫している。

 

「イスラエルの人々をエジプトの国から導き出せ」!

 

願わくは、

我らをも

この悪の世界から導き出してください!

と 願うしだい。

(雑感)

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<clay>

イスラエルの民がモーセに耳をけなかった理由は、一度希望を持ったが、それが裏切られたからである

彼らは落胆し、激しい労役に苦しんだ

 

モーセもまた、落胆していた彼は再び人間の理屈を並べるようになった。つまり、シナイ山麓召命を受けた時の状態に戻ったのである(出3:1 ~ 4:13)。

 

「口べた」とは、「唇に割礼かつれいがない」、つまり、唇が清められていないということである

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物事が期待通り進まないでいると、またその状態ばかりに直面すると

人は「落胆」する。当然だと思います。私もすぐ落ち込むほうです。(ナンデカナ?)。そんなとき、人は「人間の理屈を並べる」のですネ(゜.゜)。

上手くいかないことの理由のみを探し出そうとする?

 

ただ、モーセさんの場合、結論ありきなのに?召命のはじめ、主ははっきりと結論を仰っていたのではなかったかな?

 

きっと、モーセさんの確信がゆらぐほどのファラオの迫力だったのかもしれませんネ。モーセさんを弱気にさせるほどのもの、それは、外からの圧力もそうだけど、きっと、モーセさんの内面にある「不信」というわずかばかりの種が引き出された結果なのかもしれないと思えたりします。

 

杖が蛇にかわり、手が皮膚病に変化したりする奇蹟をみても、なお、モーセさんの内には、圧倒的な現実的な力と状況の前に屈してしまう弱さがあった。それは、きっと、若かりし頃の挫折というトラウマがまだまだ根深く彼を捉えていたのかもしれませんネ。

 

神さまから「直」に召命を受けたモーセさんでも、まだまだ、彼自身が「主」というお方を知らない、そんな状態だったんでしょうネ。

 

神さまは、この脱出劇を通して、モーセさんご自身をも教育されたのかな?モーセさんも試され続けたのかな?イエスさまも、試され続けた生涯でしたものネ。

(雑感)

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<clay>

私たちにも、

信仰が後戻りするようなことが襲って来る

そのような場合、必ず次の3 つのことが起こる。

 

状況だけをながめて暗い気持ちになる

徐々に神から心が離れて行く

人間的に自分の能力を判定し、無力感にとらわれる

(アーメン)

ほんと、そうですネ。

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なにもかもが停滞し、

立ちはだかる「壁」は厚い。

身動きのとれない閉塞感。

ほんと、苦しい状態ってアリマスよね。

 

「信仰」って、何もかも自分の都合のよいように事が運ぶためのものでもないのだと、教えられるような気がします。「自分目線」では決して見えないものがあるように思えます。「自分目線」からの「解放」。これも、ひとつの「出エジプト」?

(雑感)

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<clay>

しかし神は、ブルドーザーのようにあらゆる障害物を排除し、目的達成のために前進される私たちが信じている神は、すべてを可能にされるお方である

 

自分が置かれている環境や直面している問題から目を離し、全知全能の神を見上げよう

イエス・キリストの父なる神さま。私には、人間的に自分の能力を判定し無力感にとらわれることがありますお赦しください今あなたにつながります。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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年間聖書通読

レビ記20 ~ 21、マタイの福音書2

 

本日も配信ありがとうございました。

m(_ _)m

 

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3月5日(土) やや☀?

 

早朝にはどんよりとした東の空も

今は 眩しい日の光を注いでくれています。

感謝(^.^)。

 

「人間的に自分の能力を判定し、

無力感にとらわれる」

 

もはや 毎日、そんなことの繰返し。

「お赦しください」と

今日の祈りには記されています。

 

「私」は「代価」をもって贖われた者。

そんな基本的なことすらも

意識しなければ ついつい忘れてしまうのです。

 

ほんと、イエスさま ゴメンナサイ。

 

ところで、

通読箇所がまた「マタイ」であります。

 

💦。

 

きついぞぉ~~とつい思ってしまった。

(-_-;)。

 

でも、今は、ながらCDという強い味方がおります。

本日から、マタイ福音書のCDを毎日流す所存デアリマス。

どんな ひらめきが待っているかなぁと期待しつつ。

音声で聖書を読むのもまた楽しからずや。

感謝です。

 

ハレルヤおねがい

 

イエスさまの御名を崇めます。