出エジプト記2:16~22「この人のもとに」・・神の訓練(絶望の淵より) | 聖書と私とコーヒーと+ワン

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~「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ14:6)~

この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を
あなたがたに与えることができます。(Ⅱテモテ3:15)

 

<新共同訳>

エジプトからの逃亡(2)

16さて、ミディアンの祭司七人の娘がいた。 彼女たちがそこへ来て水をくみ、水ぶねを満たし、父の羊の群れに飲ませようとしたところへ、 17羊飼いの男たちが来て、娘たちを追い払った。モーセは立ち上がって娘たちを救い、羊の群れに水を飲ませてやった。 

 

18娘たちが父レウエルのところに帰ると、父は「どうして今日はこんなに早く帰れたのか」と尋ねた。 19彼女たちは言った。 「一人のエジプト人が羊飼いの男たちからわたしたちを助けだし、わたしたちのために水をくんで、羊に飲ませてくださいました。」 

 

20父は娘たちに言った。「どこにおられるのだ、その方はどうして、お前たちはその方をほうっておくのだ呼びに行って、食事を差し上げなさい。」

 

21モーセがこの人のもとにとどまる決意をしたので、彼は自分の娘ツィポラモーセと結婚させた22彼女は男の子を産みモーセは彼をゲルショムと名付けた。 彼が、「わたしは異国にいる寄留者(ゲール)だ」と言ったからである。

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父レウエルさん。

「父」という在り方を教えられます。

なにか、やっぱり、ちがうなぁ、と思わされました。

 

娘たちに親切にしてくれた旅人。

その「恩」への繊細な反応。

アブラハムさんをも思い出させます。

 

モーセさんに

「この人のもとにとどまる決意」をさせた人レウエル。

ミディアン人の祭司。この人もまたアブラハムの子孫。

 

ミディアンの地までの逃亡路は

後の「出エジプト」の経路の布石となる。

 

神さまにあっては

どのような状況も 「益」となってしまう。

 

(雑感)

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引用します。

 

※新実用聖書注解187p※

f. ミデヤンに逃れたモーセ(2:16-22)

(略)

モーセは娘たちの目には<ひとりのエジプト人>(19)と見えた。 (略)

モーセはミデヤンの祭司の親切な申し出を受け入れこの地にとどまることになっただけでなくその娘チッポラを妻に迎えることになった

 

2人の間に生まれた最初の男の子は<ゲルショム>(22)と名付けられた。 <「私は外国にいる寄留者だと言ったからである>(22)と、その意味が説明されている。

 

この名の通常の語源的な意味は、「ヘ」ガーラシュ に由来するもので「押し出された者」である。 しかし、語源からではなく語音から意味を引き出すなら、ゲルショムはゲール寄留者) と「シャーム彼処では) の組合せと考えられる。

 

このように、一見無理と思われる説明が加えられるのは、神学的な意味を明らかにするためである(→2:1-10注解)

 

そう解釈した場合、<私は外国にいる寄留者だ>(22)は、「私は外国で寄留者だった」とすべきであろう。 彼処(「ヘ」シャーム)、すなわち<外国>は、モーセにとってミデヤンではなく エジプトということになるからである。 エジプトは生まれ育った土地ではあるが、決してモーセの故郷ではない。 彼はそこでは一人の旅人であったにすぎない。

 

それでは、なぜモーセはミデヤンの地を自分の故郷のように感じたのか。 1つには、そこで家庭を持つことになったからである。 しかし、モーセにとって更に重要だったのは宗教についてであった。 ミデヤンの祭司の仕える神は エジプトの神々ではなかった メルキゼデクは、「天と地を造られた方、いと高き神」の祭司として、アブラハムを祝福した(創14:18-20)。 そのように、ミデヤンの祭司はモーセにとって祝福の基であり、ミデヤンはモーセにとって安息の地であった

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モーセさんの言う「寄留者」には

別の解釈があるようですネ。

 

<clay>

モーセは、寄留生活の間、ヘブル人の解放者になるという夢を放棄していたように思える。その理由は、生まれた息子に「ゲルショム」(私は外国にいる寄留者)という名をつけていることである。モーセは自らを、何の権利もない寄留者と見ていたのであろう

 

・さらに、神からの召命が下った時のモーセの反応を見ると(出3 章)、彼の心がヘブル人の解放者になるという夢から遠く離れていたことが分かる。

「日本人に贈る聖書物語Ⅲ㊤」では、逃亡途中のモーセさんの心情が細やかに描かれていてわかりやすかったです。「絶望」を抱えていたのですネ。モーセは、ミデヤンの地に歩を進めながら呟きます。

ああ、俺は見放された。運命からも、ヤハウェ様からも。

俺の四十年間、一体何だったのか。ヘブル人としての伝統も、エジプトでの教育も、この荒野では何の役にも立たない。ヘブル人の解放者になるという夢を抱いたのは、若気の至りであった。これからは、この岩の塊のように、黙して生きるしかない。」--68p--

ほんと、そのような心情だったのかもしれませんネ。「絶望」に支配されていたモーセさんの姿、なんだか身近に感じます。

 

<clay>さんの解説に励ましを得ます。

モーセが羊飼いとなったことの背後には、神の摂理の御手がある。神がどのようにモーセを訓練されたかを見てみよう。

(1)最初の40 年間で、エジプトの王子として最高の教育を受けた。その中には、法学、文学、自然科学などの学びがあった。これが後に、多くの民を統治するために役立った。

(2)次の40 年間で、荒野で生きる羊飼いとしての体験を身につけた。これは、荒野の中でイスラエルの民を導くのに役立った。

 

私たちもまた、神の訓練を軽んじてはならない

 

モーセの場合、エジプトでの訓練は知的なものであり、ミデヤンでの訓練は実践的なものであった

 

知的要素と実践的要素がバランスよく組み合わさって初めて、神のは有効に用いられるようになる

 

モーセは、エジプト人を殺した殺人犯であるが、それでも神は、彼をお用いになるどんなに不完全な人でも、清められ、神の器となる可能性が残されている

 

それが神の恵みである

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ちょっと話はそれますが・・、

もう昨日になってしまいましたが、

安息日の礼拝に集いました。

開かれたのは「ロマ書4:20」でした。

が、

私の目は4節に釘付けになりました。

 

ロマ書4:4-8 (文語訳)

されど働く者への報酬(ムクイ)は恩恵(メグミ)といはず、負債(オイメ)と認めらる 

 

されど働く事なくとも、敬虔ならぬ者を義としたまふ神を信ずる者は、その信仰を義と認めらるるなり。 

 

ダビデもまた行為(オコナイ)なくして神に義と認めらるる人の幸福(サイワイにつきて斯く云へり。曰く

 

不法を免(ユル)され、

罪を蔽(オオ)はれたる者は幸福(サイワイ)なるかな

主が罪を認め給はぬ人は幸福(サイワイ)なるかな。」

同4:4-8(新共同訳)

ところで働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています。 しかし、不信仰な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。 

 

同じようにダビデも、行いによらず神から義と認められた人の幸いを、次のようにたたえています。 

不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、幸いである

主から罪があると見なされない人は、幸いである。」

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「恵み」とは どのようなものなのか。

今一度 冷静になって受けとめたく思われました。

 

「絶望」とは なにゆえに起こるのか。

多分、「自分は無価値な者」、取るに足らぬ者、虫けら、「生きる価値のない者」という徹底的な自己否定、自分自身を追いつめてしまうところから始まるものかもしれません。もしくは、モーセさんのように、「夢」や「使命」から突然はしごを外され、これまでの「立場」すら失ってしまったときの とんでもないほどの喪失感からくるのかもしれません。

 

ロマ書4:4の正しい解釈は横において、ただ、ここに記されている日本語から とてつもない慰めを得た「今日」でありました。これだけでも、私は、その日の礼拝に出席できたことに感謝でした。

(雑感)

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ちょっとまとまりのない内容になった感ありますが、小説「日本人に贈る聖書ものがたりⅢ㊤契約の民の巻」とあわせて読んでいきますと楽しみが増します。感謝です。

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<clay>

全知全能の神よ。私が絶望する時、あなたは最も近い所にいて私を励ましてくださいますあなたの恵みと訓練に、心からの感謝を申し上げます。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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年間聖書通読

出エジブト記 7~8、詩篇 9~10

 

本日も配信ありがとうございました。

m(_ _)m

 

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1月30日(日)

午前5時を少し過ぎました。

まだまだ暗いです。

昨日は どしゃ降り、

というほどでもありませんでした。

☔の影響で気温はぐっと下がりましたネ。

 

妹は体調が思わしくないようで

一人での出席となった礼拝でした。

若い頃には「一人」が常で

なんとも思わなかったものが

今では 厳しい現実となって迫ります。

 

まず、「縦」の関係、

「神」と「自分」。

それが第一、と思ってきました。

 

でも、どんなに強がってみても

人は「一人」でいることには限界があるのかもしれませんネ。

年を経れば経るごとに その感は強くなっていきます。

 

「私」が弱すぎるのでしょうか。

それとも、

自分自身で期待していたほどの

「信仰」の獲得が出来ていなかったのでしょうか。

 

「私」のこれまでの「歩み」が

総崩れとなっていくのすら感じつつ、

必死でもがいているような

つま先だちで全身をささえているような

そんな状態にすら感じることあります。

 

唯一の砦だったのは

 「健康」だったのかもしれません。

私にはその「健康」すらもうありません。

 

「病」に立ち向かい

克服していく人々がいます。

私は 彼らの比ではありません。

いまだに

「病」と向き合うことができません。

情けない限りです。

 

「私」はクリスチャン、と言いながら、

「希望」を語るべき者であるはずが、

「生きる」「しんどさ」に

耐えられなくなってきてしまいました。

 

「死にたい」「死にたい」と

思っていたら

ほんとうに そんな「病」になりました。

 

。。。。なんとも、です。

 

「神」さまを侮る勿れ。

デスネ・・。

「神」を「畏れる」ことから

はなはだしく

遠ざかっていることに気づきます。

 

一体何がいけなかったのか、

などなど

マイナスなことばかりに目がいきます。

これこそが、「危険」な傾向かもしれませんネ。

 

正しい内省はともかく

前に進むことができなくなるような

「思考」に支配されていくことに

早く気が付かなければいけませんネ。

 

モーセさんも 逃げた場所で

「安息」を得られました。

これまでの人生と180度の転換を余儀なくされます。

されど、それが、

後の大偉業へとつながるのですから、

神さまにあっては 何事も

益とされていくことであることを覚え、

ただただ なんというか

ほぉ~とため息をつくのみでアリマス・・。

(表現出来ません・・・(-.-))

 

雑感が長くなりました。

今回はこのへんで。

 

ハレルヤ

イエスさま 

ただただ感謝致します。

どうか弱き者を憐れみください。

おねがい