マタイ福音書27:45~50「そのうちの一人」 | 聖書と私とコーヒーと+ワン

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~「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ14:6)~

この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を
あなたがたに与えることができます。(Ⅱテモテ3:15)

 

<新共同訳>

イエスの死(1)

(マコ15:33-41、ルカ23:44-49、ヨハ19:28-30)

The Death of Jesus

45さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた46三時頃、イエスは大声で叫ばれた。 「エリエリレマサバクタ。」 これは、「わが神わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

 

47そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」 と言う者もいた。 48そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした 

 

49ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」 と言った。 50 しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。 

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ここは、難しいです。

 

「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」

「わが神、わが神、

なぜわたしをお見捨てになったのですか」

 

イエスさまはなぜ、この言葉を発したのか。

「意味」があるはずなのです。

 

そして、この

「わが神、わが神、

なぜわたしをお見え捨てになったのですか」

は、詩篇22:2のことばです。

わたしの神よ、わたしの神よ

なぜわたしをお見捨てになるのか

なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず

呻きも言葉も聞いてくださらないのか

(詩篇22:2 新共同訳)

詩篇22篇28-36にこうあります。

地の果てまで

すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り

国々の民が御前にひれ伏しますように

 

王権は主にあり、主は国々を治められます

 

命に溢れてこの地に住む者はことごとく

主にひれ伏し

塵に下った者もすべて御前に身を屈めます

多分、これが来るべき世

「千年王国」の預言ですネ?

 

「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」に誘われて

詩篇22篇を読むとき

主イエスの死ぬべき定めの

ことごとく そのようになっていることの

脅威を覚えます。

 

「ダビデの詩」

 

ダビデは、イエスさまより約千年前の人です。

イエスさまの「死」のさまは

一千年の時を経て ことごとくそのようになりました。

脅威です。

 

イザヤ53章とあわせて、イエスの「死」のさまを預言の成就とみなさない方々もいます。今なお、イエスさまと同じ血をもつ方々も そうなのですヨネ。異邦人のわたし(たち)が知ることができて、なぜ 同族の彼らがわからないのか、不思議でなりません。

 

ここで登場する「居合わせた人々」のうちの「一人のひと」の行い。彼だけが、イエスさまの苦しみに応えた方。 その他大勢は、目の前で苦しむ一人の「人間」の叫びにすら、好奇の目を向けた?「しるし」を求め、何もしない。もし、結果「エリヤ」が現われたとして、もう、おそくない?

何もしなかった彼らは、すでに裁かれていない?

と そんなこと ふと思った。

(雑感)

 

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※新実用聖書注解1340-1341p※

正午から3時間<全地が暗くなっ>(45)た。

過越の季節に日食は起こらない砂嵐か厚い雲が覆ったのかは、どのような現象にせよ、神のさばきを象徴する暗闇である(参照イザ13:10-11、ヨエ3:14-15)

 

 <エリ、エリ、レマ、サバクタニ>(46)は、マタイが記している十字架上の唯一の言葉。 これが詩22篇の冒頭の言葉であるため、イエスはやがて賛美に至るこの詩篇全体を唱えていたとし、この叫びは見捨てられた苦悩ではなく賛美と信頼を表していると理解する者もいる

 

 しかし、もしそうなら、福音書記者は この詩篇に含まれる賛美の言葉を加えたのではないかやはり、神から見捨てられた者の叫びと見るほうが自然である。 

 

天の父との親密な交わりの中にあったイエスが(11:27、ヨハ10:30) そのように見捨てられたのは神に対する人間の罪を負いのろわれたものとなったからである(イザ53:6、Ⅱコリ5」21、ガラ3:13)。 

 

しかし、その絶叫のただ中でも イエスは <わが神>(46)と呼び、父に対する信頼を捨てていない。 

 

ある人々はイエスが<エリヤを呼んでいる>(47)と誤解した。 他の者たちはエリヤが来るかどうか好奇心で眺めていた。

 

イエスの最後の叫びは 「父よ、わが霊を御手にゆだねます(ルカ23:46)か「完了した」(ヨハ19:30)である

 

<息を引き取>(50)ったという表現は、直訳すると 「霊を去らせる」 で、この死がイエスの意志による自発的なものであることを示唆している(ヨハ10:18)

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※BIBLEnavi945-946p※

--27:46--

イエスは、神に質問しておられるのではない。 これは詩篇22篇の1行目の引用であるイエスがこの世の罪を負うときに感じた深い苦悶の表現であるイエスは御父から引き離された。 このことは、イエスが杯を過ぎ去らせてくださいと祈ったように、イエスがひどく恐れたことであった(26:39) 肉体的な激しい苦しみも恐ろしかったが、さらに恐ろしいのは、神から引き離されることだった

 

私たちが神から永遠に引き離される経験を決してすることがないように、イエスはこの二重の死を受けられたのだった

 

--27:47--

傍観者たちは、イエスのことばを誤って解釈し、イエスがエリヤを呼んでいると思った。 エリヤは死なずに天へ上って行ったので(Ⅱ列王2:11)、彼らを大いなる困難から救うために、再び戻って来ると考えられていた(マラキ4:5/3:23)。 年に一度の過越の食事では、各家庭はエリヤが戻って来ることを期待して、1つ余分に席を用意した。

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<clay>

1)イエスは神の子としてではなく、人間として(人類の代表として)十字架につき、死んでくださった

 

(2)イエスは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と祈られた。これは、十字架上での第4 の祈りであり、詩篇22:1 の引用である。

 

ユダヤ人の習慣では、最初の節を引用すると、その詩篇の全部を引用したことになる従って、イエスは詩篇22 篇全部を引用されたと考えてよい

 

(3)詩篇22 篇は、イザヤ53 章と並んで、代表的なメシア受難の預言であるイエスは、メシア受難の預言がご自身の十字架の死によって成就したことを示された

 

(4)これまでイエスは、父なる神に対して、「父」(170回)、あるいは、「わたしの父」(21 回)と呼びかけておられたが、ここでは「わが神」と呼びかけておられるその理由は、イエスと父なる神の親子関係が断絶し、イエスが霊的に死んだ状態になったからである

 

(5)イエスの祈りは、失敗者の言葉のように聞こえるが、そうではない。詩篇22 篇は、父なる神に助けを求める祈りなのである

 

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その祈りは、すぐに聞き届けられた

 

(1)周りにいた人たちは、イエスがエリヤを呼んでいるのではないかと勘違いした。ヘブル語では、「エリヤ」の短縮形は「エリ」なので、「エリ」という言葉は、「わが神」とも「エリヤ」とも取れる

 

(2)イエスは最後に「大声で叫んで」、息を引き取られた。ルカ23:46 には「父よ。わが霊を御手にゆだねます」とある。イエスが再び、「父よ」と呼びかけていることに注目しようそれまでは「わが神」と言っていたのに、ここでは「父よ」と呼びかけているイエスの祈りが聞かれ、父なる神との関係が直ちに回復されたことが分かる

 

(3)つまりイエスは、肉体の死を遂げる前に、霊的に死んで、霊的に復活されたということである


イエスを信じる者は皆、同じ体験をする

(1)私たちは、イエスとともに十字架につけられたそれは、神の怒りを経験したということである。(

(2)イエスが神との関係を回復されたように、私たちもまたイエスにあって神との関係を回復することができた

 

イエスを通して父なる神に感謝の祈りをささげよう

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<clay>さんの解説に

ちょっと感動しました。

わかりやすかったです。

 

つまりイエスは、

肉体の死を遂げる前に、

霊的に死んで、

霊的に復活されたということである。」

 

とても複雑ですけど、

なんというか、

凄いことが起きていたんだな・・

ということが わかります。

 

ほんとに、凄いことが起きていたんですね。

イエスさまの 十字架。

 

それなのに、

「居合わせた人々」の

なんと ・・・・・。

 

「盲目」、見えない、見えていない、

ということの 

なんというか

「喪失」とでもいうのか・・・、

哀れ?悲しさ?もったいなさ?

上手く表現ができません。

 

ただ一人、駆け寄って

「ぶどう酒」の海綿をイエスさまの口もとへと運んだ、その人。

どのような思いが働いてそのような行動に出たのかは 想像するしかありませんが、人間的な「よき思い」でイエスさまを助けたいとの衝動があったのではないでしょうか。きっと、無名のその人も イエスさまのお弟子さんになっていますネ。その他大勢ではなく、聖書に記録される一人の人物となりました。

 

イエスさまが生きておられるうちに、その行いを覚えられた方は幸いですネ。なんとなく ふと そう思った。

(雑感)

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天の父よ。私はキリストとともに十字架につけられ、キリストとともによみがえりましたすでに神の子とされていることを感謝します。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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年間聖書通読

創世記 19~20、マルコの福音書 6

 

本日も配信ありがとうございました。

m(_ _)m

 

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1月10日(月)祝日☀

 

ぼんやりとした☀です。

青空は見えているのに、

☁のようです。

 

はや、10日が過ぎる2022年。

年明け早々にパンデミックに

悩まされ、出鼻を挫かれる感じですネ。

 

数日前から

「戦う」ということ思わされています。

「立ち向かう」ということ、意識させられています。

 

そういえば、

新約聖書にも 

信者であることが、

「兵士」にたとえられていたような。

 

兜、胸当て、帯、剣 と

ガチな衣装を身にまとう。

 

兜は破れていないか、

帯はゆるくなっていないか、

胸当てはしっかりしているか、

剣は錆びていないか、

 

戦いの前には しっかりと

それぞれを点検、メンテナンス、

しなくちゃいけませんよネ。

 

メンテナンスの方法も忘れないように

しなくちゃいけないですヨネ。

 

いつまでも「受け」だけでは

身がもたないかもしれません。

 

「きはく」とタイプしたら

「希薄」と何回も出てしまうむかっ

そうじゃなくって

「気迫」です・・・(-.-)汗むかっ

 

そう「気迫」。

 

「気迫」敗けしないように

この牙城は守り通さねばなりませんネ。

 

 

今日も一日

主イエスに御名によって

感謝多からしめ給え。

 

ハレルヤおねがい