<新共同訳>
【イエス、死と復活を予告する】(2)
(マコ8:31-9:1、ルカ9:22-27)
〔Jesus Speaks about His Suffering and Death〕
24 それから、弟子たちに言われた。
「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
25 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。
26 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。 自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。
27 人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。
28 はっきり言っておく。 ここに一緒にいる人の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。」
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究極の教え。
真髄のように思えます。
「自分の命を救いたいと思う者は、それを失う」
「自分の命を失う者は、それを得る」
ただし、そこには条件がある。
わたし(=イエス)のために、という条件。
人は「誰」のためであれば
本気で、しかも真心から
その命を投げ出せるのだろうか。
人は、「死」ですら、
「自分のため」に利用してしまう。
「死」とは何であるのか、
「死」とはどういうものであるのか、
「死」への認識の誤りが
「不幸」を誘発していくのだろうと
そう思えてしまいます。
28節は いつも出会っても
意味がわかりません・・。
(雑感)
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<clay>
ここでイエスが語っておられるのは、救われる方法ではなく、弟子として生きる道である。救いは無代価で与えられるが、イエスの弟子になるためには犠牲が伴う。
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引用します。
※新実用聖書注解1320-1321p※
b. 受難予告(16:21-28)
(略)
苦難と死は、メシヤだけの問題ではない。 それはイエスの弟子となろうとする者も覚悟しなければならない。
24-26節の言葉は、10:38-39で語られている言葉を発展させている。 死刑の宣告を受けた囚人は刑場まで十字架を横木を負って行かなければならなかった。
従って <自分の十字架を負い>(24)とは、何か困難を自分に課せられたものとして負っていくというより、死の宣告を受けた者の立場に自ら立つこと、 <自分を捨て> ることである。
死がイエスに従うことの前提であるが、その死は逆説的に真のいのちをもたらす。 自己中心的な営みとしてのいのちを追求する者は、真のいのち、永遠のいのちを失い、自分に死んでイエスに従う者は逆にいのちが与えられていることに気付く。
<たとい全世界を手に入れても>(26、参照4:8-9) 真のいのちを失うことは損失で、失ったいのちを買い戻すことは出来ない(詩49:6-8)。 弟子の価値観はこのように逆転する。 そしてその逆転した姿こそ、永遠の世界における逆転に対する備えとなる。
苦難の人の子がやがて栄光の審判者として臨み、地上で苦しみにあったイエスの弟子たちは、その犠牲にふさわしい報いを受けることになる。
28節は、苦難のキリストが弟子たちの生存中に神の国の栄光と共に臨むという約束である。 その実現については、山上の姿変わり、ペンテコステ、70年のエルサレム滅亡、と意見が分かれる。
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<clay>
弟子たちの中には、その生存中に、イエスが神の国の栄光をもって現れるのを見る人々がいるとの約束がなされた。この約束は、マタイ17 章の「変貌山の出来事」によって成就する。イエスの栄光を見るという特権に与るのは、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの3 人である。
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また、少々長くなりますが、
こちらも引用させて頂きました。
※「牧師の書斎」マタイⅡ73※
参照リンク先→祭司の務めを担う者の歩み - 牧師の書斎 (meigata-bokushinoshosai.info)
2. イェシュアの挑戦への招き
【新改訳2017】マタイの福音書16章24~27節
(1)「安価な恵み」と「高価な恵み」
●「安価な恵み」と「高価な恵み」。恵みに「安価」と「高価」があるのか、聖書のどこにそのようなことばがあるのかと思われる方もいるかもしれません。このことばを使っているのは、20世紀、ドイツのナチスと戦って殉教したフレードリッヒ・ボンヘッファーという神学者です。彼は『主に従う』という著書の中でそのことばを使っています。
●「安価な恵み」とは、投げ売りされた赦し、投げ売りされた慰め、投げ売りされた礼典(洗礼や聖餐)の恵みです。
恵みの本質とはすでに永遠に勘定が支払われていることです。
しかし、恵みはいただくけれども主に従うことは結構ですという人、それはその人にとって心の変化を伴わない、頭だけの、教理としての恵みであり、いわば十字架のないご利益的な恵みなのです。
受けることだけを求めて、主に従うことをためらい、十字架を負うこともしようとしない、それが「安価な恵み」なのです。
●これに対して「高価な恵み」とは、主に従うことによって与えられる恵みを言います。それは聖化の恵みとも言われます。
それはイェシュアのいう「自分を捨て、自分の十字架を負って、主に従って行く」ことができる恵みなのです。
(2)「だれでもわたしについて来たいと思うなら」
●24節「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」ということばは、私たちに対するイェシュアの挑戦への招きのことばです。
「だれでもわたしについて来たいと思うなら」(原文では「もし~なら」という条件付きの接続詞)とあるように、イェシュアに「ついて行きたいと思わない」人には関係のない話です。
しかし、「もしわたしについて来たいと思うなら」、例外なく「自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」と命じています。
●意図的なのか偶然なのか、はかりかねますが、太字で書かれた三つの言葉は以下のように、すべて「アルファ」(α)の頭文字で始まっています。
①「自分を捨てる」を意味する「アパルネオマイ」(ἀπαρνέομαι)。
②「自分の十字架を負う」(背負う)を意味する「アイロー」(αἴρω)。
③「主に従って行く」(主について行く)を意味する「アコリューセオー」(ἀκολουθέω)。
●「自分を捨て」の「捨てる」と、「自分の十字架を負って」の「負う」という動詞はいずれもアオリスト命令形で、一回的な自発的・意志的決断を意味しています。その覚悟をもって「わたしに従って(ついて)来なさい」と命じているのです。「従って行く」は現在命令形で継続的であることを意味しています。
この挑戦は、信じる者に与えられている御霊に従うときにのみ与えられるものであり、「高価な恵み」なのです。
●パウロは安価な恵みだけに甘んじている人のことを、「肉に属する人」「肉の人」「キリストにある幼子」「ただの人」と呼んでいます。反対に、「高価な恵み」にあずかっている人を「御霊に属する人」と呼んでいます(Ⅰコリント3章1~3節)。
●讃美歌332番、聖歌582番は、「高価な恵み」に生きる人の信仰を歌っています。聖書のみことばだけでなく、讃美歌、聖歌の歌詞をじっくりと味わって瞑想することは霊的生活に有効な方法です。
〔讃美歌332番〕
主はいのちを与えませり 主は血潮を流しませり
その死によりてぞ われは生きぬ
われは何をなして 主にむくいし
〔聖歌582番〕
1. 神の御子にますイエスのために、罪を敵として立つはたれぞ
(Ref)すべてを捨てて、従いまつらん
わがすべてにます 王なる主イエスよ
2. 富の楽しみと地の位に、目もくれずイエスにつくはたれぞ (Ref)
3. 罪に捕らわれし魂をば イエスに連れ来たる有志はたれぞ (Ref)
4. わが持てるものは主よながもの きよき御戦さに用いたまえ(Ref)
●「高価な恵み」にあずかっている人は、自分のいのちを自分のためではなく、主にささげている人であることが分かります。
次の25~27節のそれぞれの節に、24節のイェシュアのことばの理由を示す「ガル」(γάρ)があります。つまり、25~27節は24節の理由を示す説明句となっているということなのです。
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初代教会の使徒たちの最後は壮絶です。
パウロさんも首をはねられてしまいました。
なんという代価だろう、と思います。
それでも、初代教会の方々、
そしてパウロさんの教えは
「恵み」に感謝せよという勧めに満ち溢れています。
目の前にある肉体的な「死」の
その先にあるものを見据えて
「今」を生きる究極のサバイバル。
本物のキリスト者ほど強いものはない。
と そう思えます。
この世から拒否されることを甘受し、死の宣告を受けた者としての立場に立つことである。イエスの弟子になることは、自己中心的な生活を送ることの対極に位置する。
「この世からの拒否」とあります。他者からの「拒否」「拒絶」を受けた経験のある者であれば、そのダメージのいかばかりかは想像できるはず。 でも、それらの経験を通して、乗り越える術を得られれば、また幸い。
本当の「自由」とは
「真理」にとことん「従う」ことによって
得られるものだということを
凡人は凡人なりに
生涯を通して 時間を頂いて
学んでいければ幸いです。
イエスに従う人には、霊的安全と、霊的豊かさが与えられる。それが弟子道の祝福である。
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<clay>
信仰によって救いに入れられるのは、大変幸いなことであるが、そこで満足していてはいけない。主イエスの弟子として、日々みことばに親しみ、神の計画の全貌を知る者とならせていただこう。
私たちが主イエスの栄光を拝する時が、刻々と近づいている。
忠実な弟子に用意されている報いを楽しみに、自分に与えられている責務を全うしようではないか。
天の父なる神さま。どうか私を、主イエスの忠実な弟子としてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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年間聖書通読
ルツ記1~2、ヘブル人への手紙12
本日も配信ありがとうございました。
m(_ _)m
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10月31日(日)
衆議院選挙投票日です。
まだ、投票していません。
午後8時までの受付といいます。
気力を振り絞って?
行ってこようとは思っていますが。
なんだか、いまいち乗りませぬ・・。
(-"-)。
良いお天気です。
お散歩日和です。
猫ちゃんの爪が痛いです。
わたしのデボーションは
先生方の記事の切り貼りばかりです。
でも、感謝いたします。
しっかりと学べましたら幸いです。
実になるようにと願う次第。
ハレルヤ
御名を崇めます。
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