マタイ福音書14:1~12 「最後の預言者ヨハネ死す」 | 聖書と私とコーヒーと+ワン

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~「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ14:6)~

この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を
あなたがたに与えることができます。(Ⅱテモテ3:15)

 

<新共同訳>

洗礼者ヨハネ殺される

(マコ6:14-29,ルカ9:7-9)

The Death of John the Baptist

1 そのころ、領主ヘロデはイエスの評判を聞き、2 家来たちにこう言った。 「あれは洗礼者ヨハネだ。 死者の中から生き返ったのだ。 だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」 

 

3 実はヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻へロディアのことでヨハネを捕らえて縛り、牢に入れていた。 4 ヨハネが、「あの女と結婚することは律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。 

 

5 ヘロデはヨハネを殺そうと思っていたが、民衆を恐れた。 人々がヨハネを預言者と思っていたからである。 

 

6 ところが、ヘロデの誕生日にヘロディアの娘が、皆の前で踊りをおどり、ヘロデを喜ばせた。 7 それで彼は娘に、「願うものは何でもやろう」と誓って約束した。 8 すると、娘は母親に唆されて、「洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、この場でください」と言った。 

 

9 王は心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、それを与えるように命じ、 10 人を遣わして、牢の中でヨハネの首をはねさせた。 11 その首は盆に載せて運ばれ、少女に渡り、少女はそれを母親に持って行った。 

 

12 それから、ヨハネの弟子たちが来て、遺体を引き取って葬り、イエスのところに行って報告した。

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なんということでしょう。

そんなことで、

神の人、大預言者、洗礼者ヨハネが殺された。

ヨハネさんの命は少女の踊りよりも軽かったのか。

 

憤りを感じるものの、

結局、洗礼者ヨハネはヘロデによって殺される運命にあったのかもしれない。「5 ヘロデはヨハネを殺そうと思っていたが、民衆を恐れた。 人々がヨハネを預言者と思っていたからである。 」とある。 ヘロデはもともと「ヨハネ」を殺したかった。 ただそのきっかけがなかったに過ぎない。

 

洗礼者ヨハネの風貌。

それは「エリヤ」。

山羊の皮衣、いなごと野蜜の食卓。

荒野の住まい。

どれひとつ、

「豊かさ」を感じさせるものはない。

(私のかってな想像デス)

 

それでも彼は

祭司ザカリアの子ですから

何不自由なく育ったはずです。

幼子は身も心も健やかに育ち、イスラエルの人々の前に現れるまで荒野にいた。(ルカ1:80)

神の声を聞くために、荒野にくだったんですね。

ヨハネさん。

 

神の使命に従うって

なんて過酷なんだろう、と

わたしなら思ってしまいます。

 

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長いですが、引用します。

 

※新聖書辞典1476-1477p※

■4. バプテスマのヨハネ

祭司ザカリヤと妻エリサベツの老年に生れ(前7年頃)、ユダヤの荒野で成長し(ルカ1:80)、その荒野で神のことばを受けた(紀元26年頃、ルカ3:2)。

(略)

 

バプテスマのヨハネが、悔い改めを迫る説教活動を始めると、彼の説教を聞こうと続々と群衆が押しかけ、聞いた者たちの多くは罪を告白してヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けた(マコ1:5)。 

 

ヨハネは、ユダヤ教の主流派、すなわちサドカイ派やパリサイ派に対してきびしい批判をした。 彼らは「まむしのすえたち」と呼ばれ、アブラハムの子孫であるから さばきを免れるだろうとする考えが糾弾されている(マタ3:7-9、ルカ3:7-8)

 

ヨハネは自分を、後から来られる方の道備えをする先駆者にすぎないと断言した(マコ7:7:、ヨハ1:23、27)。 

 

彼が特に「バプテスマのヨハネ」と呼ばれるのは、彼が授けたバプテスマの特殊性にある。 

 

それはクムラン宗団で繰り返し行われていた きよめの儀式 のようなものではなく、近づく 審判に備えて新しく整えられた神の民に、悔い改めて加えられるという一回かぎりのものであり、バプテスマを受けた者には 悔い改めにふさわしい新しい生き方が求められた

 

イエスの「聖霊と火のバプテスマ」は、ヨハネのバプテスマを完成し、全き罪の赦しと聖霊による新しいいのちを与えるものであった。(略)

 

イエスはこのヨハネからバプテスマを受けた(マタ3:12、マコ1:19)。 ヨハネはイエスを自分の後に来られるかた(メシヤ)として迎えた。 

 

ヨハネの宣教活動は ヨルダン川下流域に限られてはいなかった。 ヨハ3:23によると、ヨハネは一時 ヨルダン川下流の地域を去って、「サリムに近いアイノン」でバプテスマを授けている。 この後、ヨハネは ヘロデ・アンテパスの領地(おそらくペレヤ)に戻って活動を続けた。 

 

アンテパスが兄弟ピリポの妻ヘロデヤを奪って妻としたことを非難されたため、アンテパスはヨハネを捕らえてペレヤ(死海の東岸)にあるマケルスの城塞に幽閉した。 その後間もなく、ヨハネはそこで処刑された(マコ6:16-29)

 

新約聖書は、ヨハネをイエスの先駆者として明確に位置づけている。 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤ伝道を開始した(マコ1:14-15)。 

 

ヨハネのバプテスマは使徒的宣教の出発点であった(使10:37、13:24-25、参照マコ1:1-4、使1-22)

 

イエスはヨハネを、マラ4:5-6/6:23-24に「主の大いなる恐ろしい日が来る前に」遣わされると約束された回復の使命を持つエリヤと見なし(マタ11:14、マコ9:13、参照ルカ1:17)、また預言者の最後を飾る最大の預言者と言って評価している(ルカ7:24-28)

 

しかし、ヨハネがどれほど すぐれた人物であっても、神の国で一番小さい者よりも その特権においては劣っているのである。 

 

ヨハネの弟子たちは、ヨハネの死後もかなりの期間にわたって教団として存続し、他の地域にも広がっていたらしい。 その証拠は、ヨハネのバプテスマしか知らないアポロや 彼に導かれた信者たちが エペソにいたという事実である(使18:24-25、19:1-4)

 

ヨハネ教団は、イエスにバプテスマを授けたのはヨハネであるから、ヨハネの方が当然イエスよりすぐれている、と主張していたらしい。 それに対してヨハネの福音書は、イエスは先住者であるゆえにヨハネにまさる方であると教えている(ヨハ1:15)

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最後の預言者ヨハネさんも

「イエスにつまずいた」一人でしたネ。

 

※「牧師の書斎」引用

参照リンク先

イェシュアの先駆者としてのヨハネの死 - 牧師の書斎 (secret.jp)

イェシュアは「だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです」と言っていますが、当時の多くの人々はイェシュアにつまずいたのです。そのつまずきの形は人によって様々です(略)。

 

ヘロデに捕らえられたヨハネがその牢獄の中で、自分の弟子たちを通じてイェシュアに尋ねました。「おいでになるはずの方はあなたですかそれとも、別の方を待つべきでしょうか」と。彼はイェシュアが本当のメシアであるのかどうか、疑問に感じ始めたのです。それもそのはず、旧約聖書の預言者たちはこぞって、メシアが来られる時には、神のさばきが行われ、火で焼き尽くされると語っていたのです。しかし一向にそのような気配がないため、バプテスマのヨハネはイェシュアにつまずいてしまったのです。

 

イェシュアの時代の人々のほとんどが、イェシュアを正しく理解することができずイェシュアにつまずき悔い改めて神に立ち返ることをしなかったのです。

それでも、イエスさまのお弟子さんたちのそのほとんどは、バプテスマのヨハネさんのお弟子さんたちの多くでもありましたよネ。その意味でも、ヨハネさんは、確実に、主の道を備える使命を果たしたのだと思えます。 ただ、私的に、やっぱり、無惨な最期が痛く、悲しいです。

 

神の道は厳しいのかなと思えたりします。

 

ふと、

ある聖句箇所が思い出されました。

 

ルカ福音書17:9-10

命じられたことを果たしたからといって、

主人は僕に感謝するだろうか。

あなたがたも同じことだ。

 

自分に命じられたことをみな果たしたら

わたしどもは取るに足りない僕です

しなければならないことをしただけです

と言いなさい

 

つい、あ~なんと・・・・

と思ってしまいます。

 

自分をさえ誇れないのかぁ、と。

よくやった!と がんばった!と

ほめていただけないのかぁ、と。

 

でも、

イエスさまのお姿を思いうかべたとき、

イエスさまだったら

何の苦も無くそう おっしゃる、

と 思えるのでした。

(雑感)

 

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<clay>

いかなる悲劇でも、神の許しがなければ起きないことを覚えよう。私たちの人生にも、悪の力が勝ち誇ったかのように見えることがある。しかし、神に信頼する者は、必ず勝利する。なぜなら、主イエスは死に勝利し、今も生きておられるからだ。きょうも、主イエスの愛に感謝しつつ歩もう。

天の父なる神さま。私の主であり救い主であるイエスは、きょうも生きておられますその主に信頼してきょうもこの世に出て行きます。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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年間聖書通読

ヨブ記13〜15、テトスへの手紙3

 

本日も配信ありがとうございました。

m(_ _)m

 

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10月12日火曜日の朝は、雨。

 

昨晩は、猫ちゃんたちを閉め出して、

一人ゆっくり寝かせて頂きました。

 

と、「みゃぁ、みゃぁ」と、 明け方、

力なく、ドアの外から聞こえるは

Rの鳴き声。

 

ドアを開けると、

勢いよく 二匹が駆け込んで来た。

 

あぁ、今日も大きな猫一匹?と

二匹の生活が始まりますショボーン汗

 

でも、感謝します。

生き物って あったかい ですネ。

基礎体温38℃の猫ちゃんたち。

 

生涯を こんな小さなところで

過ごしてくれるのです。

 

たまには、海辺の公園へ

連れて行きたいなと願いつつ。

実現できるかなぁと 思いつつ。

 

ヨハネさんの生涯は、

ペットなんて関係ない世界だったのでしょう。

彼は33歳で活動し、

36歳頃にその生涯を閉じた?

 

その生き様はものすごい

孤独感が漂うのですが・・・

されど、彼を慕う弟子たちは

「教団」を形成して 広がった。

それは、

「使徒」たちへとつながった。

 

生まれたときから

その生涯が 神のため捧げられた人。

 

彼の地上生涯は

足早に過ぎ去っていったように思えますけれど、

神の国の一日は

この地の千年にもまさるほどのものだったのでしょう。

 

凡庸の者には 知り得ません。

 

バプテスマのヨハネさんの死は

あまりにも衝撃で

読むたびに 胸が痛み、

不可解な気持ちにおそわれます。

 

されど、

われらの今ある「救い」の礎となってくださいました。

 

ハレルヤ

御名によって 感謝いたします。

アーメン

 

おねがい