マタイ福音書8:14~17「疎外されていた者たち」 | 聖書と私とコーヒーと+ワン

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~「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ14:6)~

この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を
あなたがたに与えることができます。(Ⅱテモテ3:15)

 

<新共同訳>

【多くの病人を癒す】

(マコ1:29-34,ルカ4:38-41)

〔Jesus Heals Many People〕

14 イエスはペトロの家に行き、そのしゅうとめが熱を出して寝込んでいるのを御覧になった。 15 イエスがその手に触れられると、熱は去り、しゅうとめは起き上がってイエスをもてなした。 

 

16 夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者大勢連れて来た。 イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人をいやされた。 

 

17 それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。

 

 「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った。」

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引用します。

 

※新実用聖書注解1307p※

c. ペテロの姑のいやし(8:14-17)

ツァラアトに冒された人、異邦人ほどではないが、女性もユダヤ人社会で疎外されていた。 しかしイエスはペテロの姑にも手を触れていやした。 彼女は熱病で体力が消耗していたはずであるが、直ちにもてなしを始めた。 それほどいやしは完璧であった

 

16-17節は、イエスのいやしの働きの要約である。<彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った>(17)というイザ53:4の預言が成就した

 

イザ53章は人間の罪を負うメシヤを預言している。 しかし、十字架の贖罪が病のいやしを含むということではない。  十字架の犠牲は完全な罪の赦しをもたらすが、あらゆる肉体のとげを取り去るわけではない(Ⅱコリ12:7-10) いやしは神の国の到来のしるしであったが、栄光の体が与えられるのは御国が完成する終わりの時である(Ⅰコリ15:42-49、黙21:4)

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上記の下線の部分、私的には、ジョセフプリンス氏のお勧めや見解に力を得ました。 イザヤ書53:4、もっと積極的に捉えてもよいのではないでしょうか。汝の信仰のごとくなるべし、デス。「信仰」が試されているような気もします。

 

(参考)

リンク★→(1)主の体に目を向けることでより健康にーパート1

リンク★→(2)主の体に目を向けることでより健康にーパート2

リンク★→(3)主の体に目を向けることでより健康にーパート3

(約25分前後の動画。導入部分の重複がありますが、どちらのパーツも初めて聞いてもわかるようにとの配慮かもしれませんネ。)

 

でも、たしかに、

「栄光の体」が与えられる時は、「今」ではないことは確かですネ。

そのときのなんと待ち遠しいことでしょう。

 

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引用します。

 

※BIBLEnavi893p※

【8:16-17】

マタイは、イエスの王にふさわしい性質を明らかにし続けている。 イエスは、たった一度さわることによっておいやしになった(8:3、15)イエスがたった一言話すと、悪霊どもは面前から逃げた(8:16)。 

 

イエスはすべての邪悪な勢力と、すべてのこの世の病気を支配する権威を持っておられる。 また、罪を征服する力と権威を持っておられる。 

 

病と悪は、堕落した世界に生きる結果である。 しかし将来、神がすべての罪を取り除かれるとき、病と死はなくなる。 イエスのいやしの奇蹟は、全世界の人々が神の国で経験することの一部なのである。

「病と悪は、堕落した世界に生きる結果である」とは、なんとも耳が痛いです。個人のレベルに思い巡らせばなおさら、これまでの無知と無茶なるがゆえの誤った選択、そしてその果実に、「信仰」を持ってと幾多の励ましを受けつつも やはり、やるせなさは半端なく押し寄せてしまいます。 ここを 潔しとして 乗り切らねばなりませんネ。 この「戦い」にも「勝利」せんことをと願う。

 

参考★→権威を行使するイェシュア(3)「熱病」 - 牧師の書斎 (secret.jp)

(「牧師の書斎」さんの解説、今回も長いですが、展開に驚きます)

 

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悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た」

 

イエスさまの歩まれるところ

常に 「悪霊」がおり、

「悪霊」と関わらざるを得ない。

 

わたしは 不思議でした。

どの福音書にも必ず登場する「悪霊つき」。

 

そして、思いました。

いったい、この当時、どれくらいの数の人々が「悪霊つき」だったのか。

なぜ、こんなに「悪霊つき」が顕著なのか。

 

現代社会では、それらの現実が何か別のものでカモフラージュされているような気がします。ハイテクの名のもとに 隠されてしまっているのかもしれないと思いました。ましてや、映画やアニメ、漫画などではもてはやされるテーマです。

 

わたしの住む地方は、土地柄、「霊的」には敏感にならざるを得ません。文字づらだけの「宗教」では勝てない、意識のどこかで常にそんなことも抱えていました。ところが、「聖書」の中に、「神は霊なり」との記述を見て非常に驚き、感動しました。 ますます、信じられる、と思いました。 とともに、「キリスト教」は単なる「宗教」ではない、と予感するに充分でした。 

 

ひとたび聖書をみれば、

わたしたちのイエスさまは、至る所で「悪霊」を追い出していったのですから、なんとも爽快だったのでした。

 

「女性」とともに「悪霊つき」の人々も

また、社会から疎外されていた。

 

(雑感)

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<clayより>

ペテロは、イエスの死についてこう書いている。

 

「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです」(1 ペテ2:24)。

 

ペテロが書いている「いやされたのです」とは、罪からの解放のことである。イエスの十字架によって罪から解放された私たちは、天の御国が完成する時、病からも死からも自由になった栄光のからだを与えられるようになる(1 コリ15:42 ~49、黙21:4)。

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イザヤ書53:5(新共同訳)

彼が刺し貫かれたのは

わたしたちの背きのためであり

彼が打ち砕かれたのは

わたしたちの咎のためであった。

彼の受けた傷によって

わたしたちに平和が与えられ

彼の受けた傷によって、

わたしたちはいやされた

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やはり、私的に、ジョセフプリンス氏のメッセージに光を見ます。ハレルヤ。

そのような「信仰」を持ちたいです。

 

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<clay>

イエスの十字架によってされない罪はない。

 

今、自分の罪が赦されていることを感謝し、すべての重荷をイエスにゆだねようではないか。イエスは、私たちの戦いや悩みを理解し、ともに重荷を負ってくださる。

イエス・キリストの父なる神さま。主イエスは、私にとってすべてのすべてです今、すべての重荷を主におゆだねします。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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年間聖書通読

エゼキエル書34~35、エペソ人への手紙4

 

本日も配信ありがとうございました。

m(_ _)m

 

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本日も晴天☀なり。

 

ハレルヤ

イエスさま 感謝いたします。

 

われらには、

主イエスの御名による

祈りが与えられています。

 

感情が揺さぶられても、

動揺がおさまらないときも、

 

静まって ひたすらに

祈ることが与えられました。

 

今は、こんなに 平安です。

 

あの 荒波のような動揺は

どこへ行ったのか。

不思議なほどです。

 

イエスさま ありがとうございます。

 

どうか一歩 一歩

また、即に

天国人の歩みを取らせ給え。

天国人として生きることを得させ給え。

 

どうか古き自分に死なせ給え。

 

主イエスの御名によって祈ります。

 

ハレルヤおねがい