イザヤ1:18「汝らの罪は緋のごとくなるも」 | 聖書と私とコーヒーと+ワン

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~「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ14:6)~

この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を
あなたがたに与えることができます。(Ⅱテモテ3:15)

イザヤ書1章18節 (新共同訳)

 

論じ合おうではないか、と主は言われる。

 

たとえ、お前たちの罪が緋のようでも

雪のように白くなることができる。

たとえ、紅のようであっても

羊の毛のようになることができる。

 

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今朝は、

イザヤ1:18の御言葉に多大なる慰めを得ました。

感謝いたします。

 

今更のごとくですが、

「今」だからこそ 一層 、でした。

 

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引用します。

 

※新実用聖書注解945p※

 

<さあ、来たれ。論じ合おう>(18)

ここでの「来たれ」は命令形であり、「論じ合おう」は願望形で「互いに議論しよう」との意思表示である。 何故そのように神が語りかけ呼びかけておられるのだろうか(原文には「さあ」はない)。

 

<たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる>(18) の「たとい」という語とその用法は、2種の理解を可能とする。

①もし~であっても、~のように白くなるだろうか。 そうだ、そのように白くなる, ということを強調した疑問形として全体を理解する仕方と、

②たとい~であっても、~のように白くなる、 との宣言であるとの理解である。 実質的にはほとんど同じような理念を提示していると言い得る。

 

すなわち、民の側、または私たちの側の姿勢や態度によって、罪がどんなに大きく、深いものであっても、贖罪の恵みにあずかり、赦されることを明示し、強く訴えているのであるキリストにおいて後日成就した贖罪の完全性の預言とも考えられる

 

しかし、そのような恵みは、単なる宗教的儀式や律法の厳守によって与えられるのではなく、人間が万物の創造主である聖なる神に真剣に聞こうとするか、しないかの決断によるのである。 <もし喜んで聞こうとするなら>(19)、<しかし、もし拒み、そむくなら>(20) とはまさにそのことを意味している。

 

祝福と繁栄にあずかるか、それとも神の審判を受け滅亡するかの決断である。 祝福かのろいかの決断は、契約関係においては不可避的条件または責任である。

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※BIBLEnavi616p※

【1:18】

緋とは濃い赤色の耐久性の強い染料で、その深い染みは衣服から取り除くことは実質的に不可能とされた。 ここではおそらく、殺人者たちの血にまみれた手を連想させている(1:15,21)。 

 

罪による染みも、同じように恒久的なもののように思われるが、神はイスラエルの民に約束されたように、私たちの生活からも罪の染みを取り除くことができる 私たちは永久に汚れたまま人生を生きなくてもよいのである。 

 

神のみことばは、もし私たちが快く従順であるならばキリストが私たちのもっとも拭い去ることのできない染みでさえ詩篇51:1-7/51:3-9)赦し、取り去ってくださると保証してくれている。 

 

あなたもきよめていただけるよう、キリストにお願いしよう

(アーメン)

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ここ数日間、ゆっくりどころか、

得たいの知れない「痛み」で三日三晩、眠れませんでした。

吐き気も伴いました。 つい、流行のアレに?・・と思ってしまいましたが、熱はありません。 立ち上がることもままなりませんでした。

 

一人で暮らし、しかも孤立していると、こういうとき、誰に頼ってよいかわかりません。 でも、最終的に 力になってくれたのは、身内でした。

感謝でした。

 

これまでの信仰生涯を振り返りました。

失敗の数々が通り過ぎていきます。

しでかしてしまった行いはもう改めることはできません。

その実を喰らうしかないのかと、

絶望的な気分でいっそう具合が悪くなりそうでした。

 

幸い、助けを得て、

昨夕から回復を見、外にも出られるようになりました。

感謝でした。

そして、「痛み」なく、快適な肉体に身をおいてみると、あぁ、なんて幸せなんだろう、と思いました。肉体が軽いというだけで精神的な幸福感で満たされるのです。感謝でした。

 

されど、また、低周波のような攻撃はやみません。

結局、昨晩からまた眠れぬ夜が始まり、鈍痛の中、早朝に床を出ることとなりました。

 

「薬」を飲みました。

すると、5分10分で痛みが引いていきました。

肉体がじんわりと楽になていきます。

なんと 感謝だろうと思いました。

 

「薬」は 肉体に必要だから作られているのだろう。

ありがたいと思いました。

もちろん、「薬要らず」の肉体であればそれが一番よいのです。

時に、「祈り」で癒されます。

されど、今回は できませんでした。

だけど、感じたことは、「私」以外の「他」の方の祈り、です。

「他者の祈り」を「私」のために頂けることの大いなる「力」を感じました。そして、思いました。 「私」も「他者」のために祈ることができると。

 

さまざまな「過去」の失敗に思いを巡らしていると、「自分」がいかに「汚れ切っている」か、「泥まみれ」であるかを思わされました。 神さまの御前にあって全然キレイじゃない、汚い、とあらためて思わされました。

 

この「痛み」が、「罪」の結果であるならば、あるがままを受け入れるしかないのだと 思いました。 少し、楽になりました。しかし、「痛み」は鈍痛ではあってもそれが長く続くと気力体力を消耗していきます。疲労はピークに達していました。 「薬」もやがて常用しすぎると効かなくなるかもしれません。 「痛み」の原因そのものを除去しなければいけないのだと思います。されど、今は、「薬」に感謝します。

 

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「お薬」に助けられて今朝、

久しぶりに 所属する「教会」の讃美歌を広げ、歌い、祈り、聖書を読みました。通読遅れの「イザヤ」を開きました。インパクトの強い言葉が並びます。今朝のイザヤ書1章はなんだか心にくさびを打ち込まれるようでした。感謝です。

 

そして、18節に至ると、涙が出てきました。

ハレルヤ!

汝らの罪は緋のごとくなるも雪のごとく白くなり、紅のごとく赤くとも羊の毛のごとくにならん(文語訳)

(アーメン)

 

癒されました。

 

緋のごとく赤い罪すらも

雪のとごく羊の毛のごとく白くしてくださる、というのです。

 

なんという幸いでしょうか。

私は、信じます。

 

思えば、すでに 「贖罪」の御業は完了!したのです。

それを信じたはずなのに、

いとも簡単に、きっかけ一つで 

「そのこと」を忘れてしまっていることに気づきます。

 

日々の信仰とは

常に 磨きに磨いていかなければ 誇り(埃)まみれになって、錆ついていってしまうのかもしれませんね。「言うは易く行うは難し」とは、まさに。

 

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昨晩、体調もよくなって

またPCを開いてしまいました。


何か してはいけないような感じでしたが、

開いてしまいました。

昨今の気になる社会政治問題のいろいろな動画を見るうちに、具合が悪くなってきてしまいました。 応援している動画であっても 内容は決して朗報を告げるものではありません。 「政治・社会」に根気よく携わっている人々の活動には頭が下がる思いがしました。

されど、わたしの「体」は これらから遠のくようにとの悲鳴をあげているようです。 気になる問題の数々ですが、適応できない以上、しばらくそれらの動画から離れる必要もありましょう。 

 

地味ではありますが、

こじんまりとしてでも まず 己の小さな生活に精一杯目を向けて 改善できるところがあれば 精一杯 力を尽くして 取り組んでみたいと 素直に思うようになりました。 

 

たとえば明日、突然、爆弾が飛んで来ようとも、今ここにある生活を続けるのだと 思うのでありました。 

 

目立たない日々の日常に 神を見ていくことができますように。

 

主イエス・キリストの「贖罪」は、すでに「完了」していることを覚えて毎日毎日感謝できますようにと祈ります。

 

尊き主イエスの御名に感謝いたします。

イエスさま 「痛み」から解放してくださいました。

ありがとうございました。

 

これからも共にいてくださって

守ってくださいますように。

イエスさまのおっしゃる「愛」を学べますように。

 

ハレルヤおねがい