ヨハネ福音書14章27節
(新改訳)
わたしは、
あなたがたに平安を残します。
わたしは、
あなたがたにわたしの平安を与えます。
わたしが あなたがたに与えるのは、
世が与えるのとは違います。
あなたがたは
心を騒がしてはなりません。
恐れてはなりません。
(NIV訳)
Peace I leave with you;
my peace I give you.
I do not give to you as the world gives.
Do not let your hearts be troubled
and do not be afraid.
(文語訳)
われ平安を汝らに残す、
わが平安を汝らに與ふ。
わが與ふるは世の與ふる如くならず、
なんぢら心を騒がすな、また懼るな。
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安息日の土曜日。
本日も 在東京の姉妹から
約束の時刻ちょうどに、お電話。
なんとなく
いつものようでない・・
そんな気配がいたしました。
(私も 昨晩は不節制でした・・(__)。)
PCに収録されている讃美歌にも
限界があります。
彼女のリクエストに応えられません。
ふと、
以前に集っていた「教会」の
「礼拝録画」の利用を思いつきました。
2014年の2月から約半年間。
牧師先生の許しを得て
可能な限り、録画したものです。
その頃、私は、
なぜこんなことしてるのかな・・・
と、
時に わからなくなるときもありました。
諸事情も重なって、
約半年で その行為を失念したのですが、
それが、
今となっては 助けとなり始めました。
実に、不思議、です。
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その「教会」は
とにかく よく「歌う」集いでした。
(正直、私は、つぶやいたものでした)
一回の礼拝で15,6曲は 普通です。
集う信者さんにリクエストも促します。
不思議です。
呟いていたことが、今、
助けになっています。
主の名においてなされたことは
決して無駄にはならないのだな、と
「後、悟るべし」なのだな、と
反省とともに、教えられました。
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「姉妹!2014年の4月の録画だけど、そのまま流しますね!」
講壇の牧師先生のリードのもと、
次々と 賛美が歌われ、
あいまあいまに 「歌詞」を通して
御名を崇める御言葉も発せられます。
講壇に立つ牧師先生のリード、
導きが なんと 力強く心強いか、
このとき、
電話の先の
晴れやかで素直な歌声を耳にして
つい
涙してしまいました。
あぁ、
われらは「羊」なり。
「羊」には「羊飼い」が必要なのだ、と。
「群れ」を正しく導いてくださる「牧師」の存在の大きさ。
あらためて 痛感したのでした。
録画ではありますが、
その集会を導く
牧師先生の導きに安堵して
安らかに導かれ、賛美を楽しむ姉妹。
この「構図」に
目がさめるような思いがしました。
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美しい「礼拝」、
そこで語られる「主のことば」は
永久に変わらぬもの。
だから、
幾年月を経たものであっても
色褪せることは ない。
だから、「礼拝」は
詩と賛美と霊の歌、
御言葉による教えと勧めと解き明かし、
の いかに大切なのかを 知ります。
天地は過ぎゆかん、されど我が言は過ぎ往くことなし。
(マタイ24:35)
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電話の第一声で 姉妹から
「今日の御言葉」を頂きました。
「平安」なれ。
詩と賛美と祈りと御言葉の内に
没頭するとき
いいつくせない喜びと平安に包まれます。
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今日も一日始まりました。
午後からは
安息日礼拝に集います。
このような時期にあって
われらの「集会」が守られていますこと
感謝です。
常に喜び 絶えず祈り
すべてのこと感謝できますように。
ハレルヤ![]()