サムエル記下 12:15b~23
(新共同訳)
主はウリヤの妻が産んだダビデの子を打たれ、その子は弱っていった。 ダビデはその子のために神に願い求め、断食した。 彼は引きこもり、地面に横たわって夜を過ごした。王家の長老たちはその傍らに立って、王を地面から起き上がらせようとしたが、ダビデはそれを望まず、彼らと共に食事をとろうともしなかった。
七日目にその子は死んだ。
家臣たちは、その子が死んだとダビデに告げるのを恐れ、こう話し合った。 「お子様がまだ生きておられたときですら、何を申し上げても わたしたちの声に耳を傾けてくださらなかったのに、どうして亡くなられたとお伝えできよう。 何かよくないことをなさりはしまいか。」
ダビデは家臣たちが ささやき合っているのを見て、子が死んだと悟り、言った。
「あの子は死んだのか。」
彼らは答えた。
「お亡くなりになりました。」
ダビデは 地面から起き上がり、身を洗って香油を塗り、衣を替え、主の家に行って礼拝した。 王宮に戻ると、命じて食べ物を用意させ、食事をした。
家臣は尋ねた。
「どうしてこのようにふるまわれるのですか。 お子様の生きておられるときは 断食してお泣きになり、お子様が亡くなられると 起き上がって食事をなさいます。」
彼は言った。
「子がまだ生きている間は、主がわたしを憐れみ、子を生かしてくださるかもしれないと思ったからこそ、断食して泣いたのだ。 だが死んでしまった。 断食したところで、何になろう。 あの子を呼び戻せようか。 わたしは いずれあの子のところに行く。 しかし、あの子が わたしのもとに帰って来ることはない。」
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午後早く、
在東京の姉妹から電話がありました。
「今、届きましたよっ!」
( *´艸`)
つい前日の日曜日、
「ゆうパック」で送りました。
彼女の好きな黒糖とサーターアンダギー。
もずくスープやカップ麺も添えて。
日曜日の午後。
郵便局は 混雑していました。
驚きました。
立ち位置前後の距離がとれません。
心なしか、緊張。
通所なら早くて2~3日で届くはず。
ところが、
局員さんが一人一人に説明しています。
張り紙もありました。
「船便のため1週間かかります」と。
「えっぇ」
出来立てサーターアンダギー・・。
3日以内の到着なら、
なんとか美味しく食べてもらえる!
そんな私の思惑は、あっさりと
潰えてしまいました。
諦めて、持ち帰り、
わたしのおやつと致しました。
ところが、
今日の連絡です。
日曜の午後3時前の手続き。
本日のお昼ごろの連絡ですから、
約2日以内の到着です。
??
「えっぇ」
・・・なして??
~~~~~~~~~~~~~~~~~
小さなことですが、
わたしは、なにはともあれ、
パックに詰めればよかったと、
まず、後悔したのでありました。
・・・・、この悔しさ。
彼女は、日持ちする方の菓子に満足してくれて、喜びの電話をしてきてくれました。 感謝でした。気分的に落ち込み始めていたから、と言ってくれました。
いつのまにか、聖書の話しになりました。
ふと、ダビデの話しになりました。
すると、彼女が即座に言います。
「サムエル記ね」
彼女は 言いました。
「わたしには とてもできない。
ダビデのまねはできないわよぉ。
自分の子どもを亡くしたばかりよ。
わたしなら、
まだまだ泣いてばかりいるわよぉ。
そんな、すぐに立ってね、
すぐに食事をするなんて、
そんなこと、できないわよぉ・・。
だから、ダビデって人はやっぱり
王の器なのね。
切り替えが早いのね。」
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わたしは自分の子どもを持ちません。
だから、この場面も
「へぇ~、潔いものだなぁ」くらいの思い。
されど・・・、
彼女の意見を聞いて
私的に、
「子を失う親の気持ち」
を想像することの限界を感じました。
とともに、
ダビデの「信仰」を思いました。
「願う」時と、「願い」を捨てるとき。
神の取り扱いを受け入れる。
その潔さ。
ダビデは 当初から
預言者ナタンから告げられていました。
「生まれて来るあなたの子は必ず死ぬ。」(Ⅱサムエル12:14)
それでも、ダビデは 望みを捨てず、
その子のために神に願い求め、断食した。 彼は引きこもり、地面に横たわって夜を過ごした。王家の長老たちはその傍らに立って、王を地面から起き上がらせようとしたが、ダビデはそれを望まず、彼らと共に食事をとろうともしなかった。
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わたしは、彼女に感謝しました。
電話のあと、もう一度、
この聖書箇所を味わいたく思ったのでした。
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引用します。
※新実用聖書注解P478※
⑦子供の死(Ⅱ12:15b-23)
果たして、その子は主に打たれて病気になり危篤となった(15b)。 ダビデは、ナタンの預言があったにもかかわらず、ひたすら神のあわれみを求めて(16,12)、断食し、徹夜の祈りを、地に伏してささげ続けた(16)。長老たちがダビデの身を案じ、やめさせようとしたが彼は聞かなかった(17)。
7日目にとうとうその子は死んだが、これまでのひたすらな祈りを知っていた家来たちは、彼自身命を断つようなことがあってはと案じ、その死の知らせを控えていた(18)。
しかし、その気配で死の事実を知ったダビデは、起きて身を洗い、礼拝して、食事を摂った(19-20)。
これに驚いた家来たちが、王のすることは逆ではないか、と尋ねた。
ダビデは、主のあわれみを求めてひたすら祈ったが、子供が死んだ以上、この厳かな事実はそのまま受け入れなければならない、自分がその子のところへ行くことはあるが、その逆はあり得ないのだからと答えるのであった(21-23)。
彼は主の取り扱いをそのまま黙して受けようとしたのである。
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※BIBLEnavi:P288※
【12:20-24】
ダビデは罪にとどまることをしなかった。
彼は神に立ち返り、神は彼を赦し、新しい人生を始める道を開かれた。
神がソロモンにお与えになった「エディデヤ」(主に愛される者)という名前も、神の恵みを思い起こさせる。
私たちが神に立ち返り、赦しを受け取り、生き方を変えるなら、神は私たちを新しくスタートさせてくださる。
ダビデのように赦されたことを感じるには、神の御前で罪を認め、立ち返ることだ。
それから、新しく斬新な生き方を始めなさい。
【12:22,23】
おそらく人生で最も辛い経験の1つは、子どもの死だろう。
そのような苦境の中で慰めを受けるには、詩篇16:9-11、17:15、イザヤ40:11を参照。
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(詩篇16:9-11 新共同訳)
わたしの心は喜び、魂は踊ります。
からだは安心して憩います。
あなたは
わたしの魂を陰府に渡すことなく
あなたの慈しみに生きる者に
墓穴を見させず
命の道を教えてくださいます。
わたしは
御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い
右の御手から永遠の喜びをいただきます。
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(アーメン)
今宵も また
安き眠りが 与えられますように。
ハレルヤ