わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。エフェソ4:7 | 聖書と私とコーヒーと+ワン

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~「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ14:6)~

この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を
あなたがたに与えることができます。(Ⅱテモテ3:15)

エフェソの信徒への手紙

4章7節 (新共同訳)

 

しかし、わたしたち一人一人に、

キリストの賜物のはかりに従って、

恵みが与えられています。

 

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BibleNavi:P1333より。

【4:4-7】

キリストにあるすべての信者は1つのからだに属する。 すべての信者は、1人のかしらであるキリストご自身のもとで1つにされる (Ⅰコリント12:12-27)。

 

信者はおのおの、からだ全体を強める、神から与えられた能力を持っている。

 

あなたの特別な能力は小さかったり大きかったり思われるかもしれないが、それは神の奉仕に用いるために与えられたものだ。

 

信者たちのからだの強さと健全さに貢献するために、あなた独自の賜物を用いていただけるよう神に求めよう

~~~~~~~~~~~~~

 

わたしにも おおよそ、3つほど

「これかな」うーんはてなマーク

と思えるようになったものがある。

 

これは、

神さまとわたしとの「秘密」の部分。

 

「教会」生活の幾年月のなかで、

多分?が、

「確信」に変わり始めたのが、

ほんの数年前の気づきです。

 

まったく小さな能力ですけれど、

私にとっては これが

与えられた精一杯のものをもって

できることのように思え、

事実、その「賜物」を行ったとき、

「喜び」が大きいのです。

苦になりません。

 

多分、「賜物」を行使するとき、

「苦痛」は伴いません。

「喜び」となり、「確信」となり、「希望」となっていきます。

 

だから、

あるご奉仕をしながら「苦痛」を感じる方がいらっしゃれば、

それは、本当の意味で その人に与えられている「賜物」ではないように思えます。 無理をすることはないのだと思います。

本当の「賜物」は ある面、「宝探し」のようなものかもしれません。

最初から 分かる方は少ないのではないでしょうか。

 

他の方のお勧めに従って、

アレコレと 行っていくうちに、

わかってくるのだろうと思いますし、

また、

自分自身の中におこる「意志」に

素直に従って行動していくうちに

わかってくるものなのだとも 思うのです。

 

しかし、わたしたち一人一人に、

キリストの賜物のはかりに従って、

恵みが与えられています。

 

才能あふれる方々をみると、

自分ももっともっと恵まれたい!

なんて 「欲」が出てしまう時もありますが、

そこは、

ひとつ、

「謙虚」になって

 

わが恵みなんぢに足れり (Ⅱコリント12:9)

との 御声に耳を傾け、

 

我らは範囲を超えて誇らず、

神の我らに分ち賜いたる範囲にしたがいて誇らん (Ⅱコリント10:13)

 

と 心から言える者となれたら

なんと幸いかと思います。

 

「足りている」と仰って下さっている「恵み」。

 

その「恵み」を探す今日一日の始まりに

感謝できますように。

 

ハレルヤ