コリント第一 6章13節前半 (新共同訳)
食物は腹のため、
腹は食物のためにあるが、
神はそのいずれをも滅ぼされる。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
この箇所の聖句は、ややもすると、早とちりしそう。
昨日、パッと目について離れず、ずっと気になっておりました。
早速ではありますが、
長くなりますが、手引書をフルに活用させて頂きます。
コリントのクリスチャンの中には、「食物や体はやがて消え去るものであるから、それらに関しては何をしても構わない。それが、魂や霊に悪影響を与えることはない。」 と考える人たちがいたようです。
--クレイ聖書解説コレクション「コリント人への手紙」p36---
コリント教会には、キリスト者に与えられた律法からの自由を誤用して、<すべてのことが許されています>(12) との標語のもとに、遊女を買うことを罪とも思わない人々がいた。(略)
コリント教会が遊女を買う行為を是認したもう1つの理由は、「食物と食物を必要とする腹がこの世限りのものであるように、遊女の肉体とそれを必要とする自分の体もこの世限りのもので、永遠的な意味合いはないのだから、遊女と遊んでも魂を損なうことはないのだ」 というものだった。
---新実用聖書注解P1588-1589---
「コリントには、愛の神アフロディテの神殿があり、1000人以上の娼婦が女祭司として雇われていた。性行為が礼拝の儀式の一部だった。」
(BibleNavi参照)
~~~~~~~~~~~~~~~
「コリント」とは、とんでもない所だったようです。
自由奔放で”肉体”を謳歌していた感じにもみえます。
使徒パウロは コリントの信徒たちに反論しました。
パウロは、キリスト者の自由を示すこの標語を肯定的に引用しながら、それに2つの制限を付ける。
第1に、信徒の行動はそれが霊的益となるかどうかで決せられるべきである。
第2に、自由の名のもとに欲望に身をゆだねて結局は欲望の奴隷となるべきではない (12)。
---新実用聖書注解P1588-1589---
具体的には、
(1)クリスチャンの体はキリストのからだの一部である。
(2)その体を取って、遊女と交わるなら、その人は遊女と一心同体となる。そのようなことが許されるはずがない。
(3)人が犯す罪はすべて体の外のものであるが、不品行を行う者は、自分の体に対して罪を犯しているのである。
(4)信者の体は、聖霊の宮である。 その宮を遊女の体とすることは重大な罪である。
---クレイ聖書解説コレクション「コリント人への手紙」P36--
~~~~~~~~~~~~~
「食物は腹のため、腹は食物のため」という言葉につい、単純かつ安易に反応してしまった私ですが、 ひもとくと、なんだか難しい話しに発展してしまったと、収拾がつかなくなりそうな思いです。 何をどうまとめればよいのかわかりません。
新実用聖書注解は この句をこうも説明しています。
12節の最初の文は、元来は律法からの自由を説いたパウロの言葉かもしれない。
食物と腹についての言葉(13)は、元来は食物についてのきよめの律法から信徒を自由にする言葉だったかもしれない。
<滅ぼ>す(13)は 刑罰的意味ではなく、永遠に残るものではないことを表す。 <すべて>(18)は厳密にとなるべきではない。 不摂生のように体を損なう罪もある。
--新実用聖書注解P1589--
~~~~~~~~~~~~
かなり長いですが、記録しておきます。
(1)
宗教の多くは、魂や霊は重要だが、からだは重要ではないと教える。しかしキリスト教はからだの領域を非常に真剣に受け止めている。
私たちは、物質界を創造し、それを良いと宣言された神を礼拝する。私たちは新しい地を約束されており、そこで変えられた 新しいからだ を受ける。
キリスト教の核心にあるのは、肉と血を帯びてこの世に生まれ、私たちとともに生き、肉体的ないやしと霊的な回復の両方をお与えになる神ご自身の物語である。
私たち人間はアダムのように、ちりと霊の結合である。
私たちの霊がからだに影響を及ぼすように、からだは霊に影響を及ぼす。 からだと魂は不可分に結びついているので、魂を傷つけずにからだを用いて罪を犯すことはできない。
新しい地において、私たちは罪によって堕落しない復活のからだを受ける。 そのとき私たちは、完全な救いを享受するのである。
(2)
自由は、キリスト教信仰のしるし である。
すなわち罪からの自由、そして神から来るものは何でも用い、享受する自由である。 しかしクリスチャンは、この自由を乱用したり、自分自身や他の人たちを傷つけたりすべきではない。
飲みすぎはアルコール依存症を引き起こし、大食は肥満を引き起こす。
神があなたに享受させておられることが、あなたを支配する悪い習慣に発展しないように注意しよう。
クリスチャンの自由と日々の振る舞いについては、8章を参照。
【6:13】
性的不品行は、常に直面する誘惑である。
映画やテレビの中で、婚姻関係の範囲を超えた性行為は、普通のこととして扱われている。 一方、結婚は、しばしば互いに拘束する喜びのない関係のように表される。 純潔であることが、ばかにされる原因にもなる。
しかし神は、性的な罪を、ただ罪だからということで禁じているのではない。 神は、人を肉体的にそして霊的に滅ぼす性的な罪の力を知っておられるのである。
性的不品行の力を侮るべきではない。
それは数え切れない人生を荒廃させ、家族や教会、地域社会、そして国さえも破壊する。
神は私たちを、私たち自身や他の人に損害を与えることから守りたいと思っておられ、そして、私たちの孤独や願望を、ご自身によって満たそうとしておられるのである。
---BibleNavi:P1260-1261---
さらに、
主と体とのこの深い結び付きは、信徒の体がやがて主と同じく復活することから明らかである。
この復活の教えは、体が腹(消化器官)のようにこの世限りのものではなく、永遠の意味を持っていることをも示している。
体の復活を<私たち>の復活と言い換えることが出来るほどに 「からだ」は人格と触れる人間の本質部分を成しており、主との永遠の関係を持つものである (14)。
体を軽視して不品行に陥るべきではないのである。
他方、信徒の体が主のためにあることは、私たちの体(この場合も体を伴った人格全体のこと)がキリストの体(教会)に結ばれている、ということから明らかである。 (略)
不品行は自分の体に対する罪である(18)。
不品行は自分の体と人格を汚す罪なのである。
最後に、不品行を含むあらゆる問題を考える原則が示される。
信徒の体は聖霊の宮であり、自分のものではない (19)。
信徒はキリストの十字架という代価によって神の所有となるように買い取られた者たちなのである。
そこで、信徒は自分の体をもって(具体的行動の一つ一つを通して) 神の栄光を現すべきである (20)。
---新実用聖書注解P1589---
*********************************
いずれの解説も捨てがたく、
まるまるここに転記させて頂きました。
(多分、すぐ忘れることでしょう・・・(^-^;))
今はとても便利となりました。
「携帯スマホ」さえあれば、
いつでもどこでも、絶えず見直すことができます。
感謝です。
「食物は腹のため、腹は食物のため」に
振り回されている「わたし」のような気がしましたが、
実は、この「肉体」は、主によって「神聖」なものとされています。
「不完全な肉体」にあって「完全なる肉体」の実現を待つ。
それは、希望でもありますが、忍耐でもあり、試練でもあるようにも思えます。
人はいずれ、「土」に返る。
(返らない人も出現するでしょう・・・)
それまでは、「不完全」ながらも、
「物質的な恵み」とともに「霊的な恵み」の幸いを十分に受け取れる器になれたら、なんと幸いだろう、とも思えました。
ハレルヤ