ヨブ記9-10章③ヨブの反論・・「あの方とわたしの間を調停してくれる者、仲裁する者がいるなら」 | 聖書と私とコーヒーと+ワン

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~「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ14:6)~

この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を
あなたがたに与えることができます。(Ⅱテモテ3:15)

ヨブ記9章32-35 (新共同訳)

このように、人間ともいえないような者だが

わたしはなお、あの方に言い返したい。

 

あの方と共に裁きの座に出ることができるなら

 

あの方とわたしの間を調停してくれる者

仲裁する者がいるなら

 

わたしの上からあの方の杖を

取り払ってくれるものがあるなら

 

その時には、あの方の怒りに脅かされることなく

恐れることなくわたしは宣言するだろう

 

わたしは正当に扱われていない、と

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正直、驚きました。

ここの節に至ってヨブさんは

仲裁する者」の存在を切望しています。

 

「仲裁者」という概念が飛び出してきました。

驚きです。

 

「仲裁する者」

※<仲裁者>(ヘ)「モーキーアハ」は「さばく」「判決を下す」「証明する」「責める」という意味の動詞の派生語。第三者として公平に、権威をもって判決を下す人

--新実用聖書注解P691--

 

「あの方」と訳されているのは、「神」のこと?

「神」を人間的に表現したわけは何だろう?

 

ヨブさんは、ここに至って

「神」と自分との間にたって 公平に判決を下すことができる、神以外のまたは神と同等の「権威」を持つ第三者の存在を求めた?というように捉えていいのかな?

 

そうすると、

ヨブさんの この発言の意味って 凄く重みをましてくる。

ある意味 預言的。

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正直、この節(9:32はとくに)

新共同訳ではなんとなく意味がつかみずらいような、もやもや気分が抜けません。そこで、文語訳、新改訳を開いてみました。

 

※文語訳(ヨブ記9:32-35)

神は我のごとく人にあらざれば

我かれに答ふべからず

 

我ら二箇(フタリ)して共に審判に臨むべからず

 

また我らの間には

我ら二箇(フタリ)の上に手を置くべき仲保あらず

 

願はくは 彼その杖を我より取りはなし

その震怒(イカリ)をもて 我を懼れしめ給はざれ

 

然らば我 言語(モノイ)ひて 彼を畏れざらん

其は 我みづから斯る者と思はざればなり

 

※新改訳(ヨブ記9:32-35)

神は私のように人間ではないから、私は

「さあ、さばきの座にいっしょに行こう」と

申し入れることはできない。

 

私たちふたりの上に手を置く仲裁者が

私たちの間にはいない。

 

神がその杖を私から取り去られるように。

その恐ろしさで私をおびえさせないように。

 

そうすれば、私は語りかけ、神を恐れまい。

いま私はそうではないからだ。

 

 

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新改訳の方がわかりやすいですね。

 

新共同訳で「人間ともいえないような者」と訳されている箇所は、「神」のことだったのですね。ナルホド(-.-)。私は、てっきり、ヨブさんが自分を卑下して言っているものと思ってしまって、トンチンカンになってしまっておりました。 我ながら日本語力の未熟さ、読み取る力の非力さを痛感するのでありました。ぼけー汗

 

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難しいので、今回も手引書に頼ります。

長くなりますが 引用します。

9:32-35

ヨブには、神が言い分も聞かず、潔白な者を罪に定めることが不条理に思われた。しかし人間相手の場合のように、<「さあ、さばきの座にいっしょに行こう」と申し入れることはできない>(32)。 ヨブは<私たちふたりの上に手を置く仲裁者が私たちの間にはいない>(33)と嘆く。

仲裁者といっても、間をとりなす人というより公平にさばく人という意味である。

 

つまりヨブは、自分と神との間に立って、両者の言い分を聞き、公平な立場で判決を下す人がいないと言っている。否定的な表現であるが、自分と神との間の仲裁者の必要に気が付いたことは、ヨブの歩みの中でも画期的な出来事であった。

 

パウロの言葉、

「神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです」(Ⅰテモテ2:5)

を予告する預言的な出来事だと言える。

 

しかしヨブはその時点では、正確に把握することが出来ず、そのためこの考えは進展せず、元に戻ってしまう。

----新実用聖書注解P690-691---

ヨブが求めた仲裁者は、私たちに与えられています

主イエスは、私たちのために神の御前で執り成してくださるお方です

---クレイ聖書解説コレクション「ヨブ記」P56---

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ウ~んうーん汗

残念、ヨブさん。

 

いいところまでいったのになぁ。

 

でも、凄いよ!ヨブさん!

 

そう思うと、

 

逃れられない苦しみの中で「思索」し続けた結果、

ヨブさんは ある一つの「真理」にたどりつこうとしていた、

または、ある「真理」を導きだそうとしていた。

この「真理」は ヨブさんの時代から遙か遠い遠い先で

ようやく明らかになったのですから。 凄いよ!ヨブさん!

 

ヨブさんの足もとにもおよばない「私」でも

その「真理」の恩恵に与かることができていますこと、有り難い、です。 (^^)。

 

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詩篇119:71(新共同訳)

卑しめられたのは わたしのために良いことでした。

わたしは あなたの掟を学ぶようになりました。

 

同(文語訳)

困苦(くるしみ)にあひたりしは我によきことなり

我なんぢの律法(おきて)をまなびえたり

 

同(新改訳)

苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。

私はそれであなたのおきてを学びました。

 

同(The Holy Bible, New Intenational Version)

It was good for me to be afflicted

so that I might learn your decrees.

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アーメン

ハレルヤ(*^_^*)