ヨブ記9章32-35 (新共同訳)
このように、人間ともいえないような者だが
わたしはなお、あの方に言い返したい。
あの方と共に裁きの座に出ることができるなら
あの方とわたしの間を調停してくれる者
仲裁する者がいるなら
わたしの上からあの方の杖を
取り払ってくれるものがあるなら
その時には、あの方の怒りに脅かされることなく
恐れることなくわたしは宣言するだろう
わたしは正当に扱われていない、と。
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正直、驚きました。
ここの節に至ってヨブさんは
「仲裁する者」の存在を切望しています。
「仲裁者」という概念が飛び出してきました。
驚きです。
「仲裁する者」
※<仲裁者>(ヘ)「モーキーアハ」は「さばく」「判決を下す」「証明する」「責める」という意味の動詞の派生語。第三者として公平に、権威をもって判決を下す人。
--新実用聖書注解P691--
「あの方」と訳されているのは、「神」のこと?
「神」を人間的に表現したわけは何だろう?
ヨブさんは、ここに至って
「神」と自分との間にたって 公平に判決を下すことができる、神以外のまたは神と同等の「権威」を持つ第三者の存在を求めた?というように捉えていいのかな?
そうすると、
ヨブさんの この発言の意味って 凄く重みをましてくる。
ある意味 預言的。
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正直、この節(9:32はとくに)
新共同訳ではなんとなく意味がつかみずらいような、もやもや気分が抜けません。そこで、文語訳、新改訳を開いてみました。
※文語訳(ヨブ記9:32-35)
神は我のごとく人にあらざれば
我かれに答ふべからず
我ら二箇(フタリ)して共に審判に臨むべからず
また我らの間には
我ら二箇(フタリ)の上に手を置くべき仲保あらず
願はくは 彼その杖を我より取りはなし
その震怒(イカリ)をもて 我を懼れしめ給はざれ
然らば我 言語(モノイ)ひて 彼を畏れざらん
其は 我みづから斯る者と思はざればなり
※新改訳(ヨブ記9:32-35)
神は私のように人間ではないから、私は
「さあ、さばきの座にいっしょに行こう」と
申し入れることはできない。
私たちふたりの上に手を置く仲裁者が
私たちの間にはいない。
神がその杖を私から取り去られるように。
その恐ろしさで私をおびえさせないように。
そうすれば、私は語りかけ、神を恐れまい。
いま私はそうではないからだ。
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新改訳の方がわかりやすいですね。
新共同訳で「人間ともいえないような者」と訳されている箇所は、「神」のことだったのですね。ナルホド(-.-)。私は、てっきり、ヨブさんが自分を卑下して言っているものと思ってしまって、トンチンカンになってしまっておりました。 我ながら日本語力の未熟さ、読み取る力の非力さを痛感するのでありました。
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難しいので、今回も手引書に頼ります。
長くなりますが 引用します。
9:32-35
ヨブには、神が言い分も聞かず、潔白な者を罪に定めることが不条理に思われた。しかし人間相手の場合のように、<「さあ、さばきの座にいっしょに行こう」と申し入れることはできない>(32)。 ヨブは<私たちふたりの上に手を置く仲裁者が私たちの間にはいない>(33)と嘆く。
仲裁者といっても、間をとりなす人というより公平にさばく人という意味である。
つまりヨブは、自分と神との間に立って、両者の言い分を聞き、公平な立場で判決を下す人がいないと言っている。否定的な表現であるが、自分と神との間の仲裁者の必要に気が付いたことは、ヨブの歩みの中でも画期的な出来事であった。
パウロの言葉、
「神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです」(Ⅰテモテ2:5)
を予告する預言的な出来事だと言える。
しかしヨブはその時点では、正確に把握することが出来ず、そのためこの考えは進展せず、元に戻ってしまう。
----新実用聖書注解P690-691---
ヨブが求めた仲裁者は、私たちに与えられています。
主イエスは、私たちのために神の御前で執り成してくださるお方です。
---クレイ聖書解説コレクション「ヨブ記」P56---
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ウ~ん。
残念、ヨブさん。
いいところまでいったのになぁ。
でも、凄いよ!ヨブさん!
そう思うと、
逃れられない苦しみの中で「思索」し続けた結果、
ヨブさんは ある一つの「真理」にたどりつこうとしていた、
または、ある「真理」を導きだそうとしていた。
この「真理」は ヨブさんの時代から遙か遠い遠い先で
ようやく明らかになったのですから。 凄いよ!ヨブさん!
ヨブさんの足もとにもおよばない「私」でも
その「真理」の恩恵に与かることができていますこと、有り難い、です。 (^^)。
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詩篇119:71(新共同訳)
卑しめられたのは わたしのために良いことでした。
わたしは あなたの掟を学ぶようになりました。
同(文語訳)
困苦(くるしみ)にあひたりしは我によきことなり
我なんぢの律法(おきて)をまなびえたり
同(新改訳)
苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。
私はそれであなたのおきてを学びました。
同(The Holy Bible, New Intenational Version)
It was good for me to be afflicted
so that I might learn your decrees.
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アーメン
ハレルヤ(*^_^*)