ヨハネ13:19・・・『わたしはある』という者 | 聖書と私とコーヒーと+ワン

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~「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ14:6)~

この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を
あなたがたに与えることができます。(Ⅱテモテ3:15)

ヨハネ福音書13:19 (新共同訳)

事の起こる前に、今、言っておく。

事が起こったとき、『わたしはある』ということを、

あなたがたが信じるようになるためである。

 

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出エジプト記3:14

神はモーセに、

わたしはある。わたしはあるという者だ

と言われ、また、

「イスラエルの人々にこう言うがよい。

わたしはある』という方が

わたしをあなたたちに遣わされたのだと。」

 

モーセが主より召命を受けたとき モーセは尋ねた。

「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。

彼らに、

『あなたたちの先祖の神が、わたしをここ遣わされたのです。』

と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うに違いありません。

彼らに何と答えるべきでしょうか。」 (出エジプト3:13)

 

モーセの慎重さには敬服します。

神の名を聞き出してくれました。

 

『わたしはある』

 

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午前0時にブラックコーヒーを飲んで

テニス観戦に備えたら

雨天中止になってしまった。

 

久しぶりに インターネットのサイトを開いてみた。

すると、

ヨハネ13:19の御言葉が紹介されていた。

 

「へぇ~~」と、感心してしまった。

 

いつも目にする文字なのに

「はっ」と また 目を開かれたような感覚でした。

 

我は有て在る者なり

「我有といふ者 我をなんぢらに遣わしたまふと」

と、文語訳では なんとも味わいふかい響きである。

 

有りて在るもの。

 

それは、

ご存命中のイエス様が ご自身をさして言われた

その 言葉 だった。

「事が起こった時、『わたしはある』ということを、

あなたがたが信じるようになるためである。」

 

原本の聖書の言葉でも

イエス様がおっしゃった「わたしはある」と

出エジプト記の「わたしはある」とは

 同じ単語の綴りなのだろうか?

 

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イエス様は 「神」ではない、という方もいる。

 

わたしも クリスチャンほやほやの頃は

なかなか 父、御子、聖霊が理解できず、

父とキリストの関係が整理できずにいた。

 

でも、キリスト・イエスは

神が人となって現れた ということを信じる時

偉大なる神の深い慈愛と深遠な摂理を

感じざるをえないのでした。

 

神が人となる、ということ。

 

凄いことです。

神が人となる、という この発想自体

人知ではありえないことだと 思いました。

こんなこと 神 にしか できません。

 

理解できないことだから、

信仰の領域に入る。

 

「信仰」の奥深さ を知りました。

 

感謝でした。

 

復活されたイエス様の肉体は

今もなお生きていらっしゃるということですから

この地球外の どこに いらっしゃるのだろう、

とふと考えるときもあり、「神」という大きなイメージが

一つの肉体におさまってしまうと

逆に、壮大な「神」の概念が窮屈にされてしまって

はた?と 思考が止まってしまう 時もある。

 

まぁ、こんなこと、小さなことなのだ。

 

すべての人類は イエスさまのものなのだから。

それで よい。

 

新聖書辞典P1013

神の名を知ることは啓示された神御自身を

体験的に人格的に知ることである。

(詩9:10/9:11、91:14、イザ52:6)

 

ハレルヤ