使徒1:8 (新共同訳)
あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。
そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリヤの全土、
また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。
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数年前 いつものように キリスト教書店に立ち寄って
何気に目にした 一冊の本を 購入したのだった。
今思えば、衝動買いの類かしら、とも思うけれど、
その時は 何かしら”必要”に感じたのかもしれません。
「新クリスチャン生活百科」(いのちのことば社)
(5000円+税・・・とある。結構高い・・・(*_*)!!思い切っったものだなぁ・・・・。)
その後、現在に至るまで 書棚で埃をかぶっている状態・・。
先日、新聖書辞典をめくったところ
なんと「教会生活」という語彙の解説があった。
当然のごとく・・、興味を抱いた次第・・。
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新聖書辞典(いのちのことば社)P422~P426より
■きょうかいせいかつ 教会生活
1.広がり
2.一致
3.原動力
4.礼拝
5.信仰生活
6.愛の実践(物質的生活)
7.社会とのかかわり
7項目に分けて 「教会生活」という語彙を説明してくれている。
私的には後半が興味深いけれど、順を追って見て行くことに
致しました。
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原則*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~
教会は、キリストの証人としてこの世から召し出された者たちの群れである(Ⅰペテ2:9)。教会はキリストを通して神に屬するものであり、神は教会を存在させ、その中に宿
り、それを支配し、それを通して働かれる。それゆえ、教会は全世界に存在し、時間を
越えて存在する普遍的存在である。同時にそれは、広い地域に散在するグループで
あり(ガラ1:2) 、ある場合には同一地域に住むキリスト者の群れを意味し(使13:1)、
礼拝のために集まる小グループのキリスト者を指した(ロマ16:5、Ⅰコリ16:19、コロ4:
15、ピレ2節)。いずれにしても、「教会」は建物ではなう、キリストによって贖われた
人々を指している。*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*
1. 広がり
使徒の働き/使徒言行録の記事によると、
教会は五旬節の日の聖霊降臨を期して、エルサレムから始まった。
(使徒2章) そしてそれは、
キリストが予告したように(使1:8)、全世界に広がり始めた。
エルサレムから始まった教会は、
ユダヤ地方、サマリヤ地方、ダマスコ、シリヤのアンテオケ、
キプロス、小アジヤ、地中海沿岸地方を席巻し、エーゲ海周辺、
ヨーロッパ大陸、そしてついに帝国の首都ローマに至った。
しかもその成長はとどまるところを知らず、さらに遠く、スペインまでが
パウロの伝道の予定表に組み込まれていた。(ロマ15:20-24)
こういった記事から推察してみると、
新約聖書中には直後の証言は見られないが、パウロの時代には、
イタリヤはもちろんのこと、エジプト、アフリカの北岸、フランスの南部
にまで福音が伝えられ、教会が設立されつつあったのではないかと
考えられる。
これに参画、寄与したのは、十二使徒を初めとする、
パウロ、バルナバ、シラス、テモテ、テトス、アポロ、ステパノ、ピリポと
いった伝道者たちであり、また多くの無名の信徒たちであった。
こうして教会は神の福音宣教の実行機関となった」のである。
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(雑感)
「教会生活」という語彙を解説し、説明していくにあたっては、
「教会」の概念をしっかりと正しく把握させる必要があるのでしょう。
「教会」の発生と成り立ち、その発展の経路、その初めからそこに
携わってきた人々の紹介。「教会」の存在理由。etc・・・
エルサレムから始まった「教会」は、
いまや 地の果てである極東の「日本」にまで届いています。
「教会」の時代は、まだ続いています。
やがて、「教会」時代は 終わりを迎えますが、それがいつなのか、
はっきりとは わかりません。
イエスさまがこの 「教会」に 望んでいらっしゃることは何なのでしょう。
先の序文としての解説を読みましても、
全世界の隅々にまでキリストの福音を伝える、
これが 「教会」の第一の目的のようにも思えます。
「福音」を伝えることを第一として生きてくださる伝道者、宣教者たちの
役割は大きいものと思います。「福音」のためだけに全生涯を生きる
人々がより多く興されていくことを願わずいはいられません。
現在75億ともいわれる地球人口。その中の何人が キリストの福音に
触れているのだろうか。言語と国境と民族の壁。できれば、その土地
その言語で生きてきた人の中から優秀な伝道者、説教者がおこされる
べきなのだと強く思います。全世界の人々の内で「字」を読める人は
どのくらいなのでしょう。「字」を知る人が、「話す」ことによって
「字」を知らない人々も 福音を「聞く」ことができる。
信仰は「聞く」ことから 始まる。
「宣教の愚かさ」によって救うこととされている「教会」時代。
「教会」は、
この「福音宣教」をささえつづける存在です。
そして「教会」に集う者とされたわたし(たち)は、共に神を礼拝し、
日々神の息吹を感じ、神の御業がなされていくようにと祈ります。
それぞれのクリスチャンの日々の「教会生活」が堅くせられていくこと
は、「教会」を通して 世界宣教をなそうとされている主の御心に適うの
でしょう。一見、とても地味ではありますが、贖い出された一人一人が
しっかりと「教会」生活をしていくことが「世界宣教」の礎となっていく。
そのように考えてきますと、
何もできていないような小さな「私」も、しっかりキリストの復活の証人
として 歩む「意味」も ちらほらと見えて来て、感謝であります。
クリスチャンの1人1人の生活は 「世界宣教」の礎となっていきますから
感謝です。 異邦人の数満ちる時、主は来られます。
主イエスの御名を崇めて感謝致します。
アァメン ハレルヤ